あの夏よりも、遠いところへ
『パガニーニの思い出』は難しかったけれど、サヤと一緒だったから頑張れた。いや、まだまだ全然弾けねえんだけどさ。
「蓮、ほんまにすごい。夏休み中に完成するんちゃう?」
それでも彼女は褒めてくれる。まるで自分のことのように、心底嬉しそうな顔で。
俺は本当に、情けねえほど単純な男だ。サヤのその顔を見るだけでこんなにもやる気が出てくるなんて。
「俺、もっとがんばる。絶対すぐ弾けるようになったる!」
「うん、蓮ならできるよ。楽しみにしてる」
細く白い指が俺の髪を撫でて、するりと抜けた。
夏休み、あと2週間か。2週間が経てば学校も始まって、もうこんなふうに長い間一緒に過ごすことができなくなる。
……あ、そういえば、宿題、全然進んでねえや。
「でも、まだプールも行ってへんし、バスケもしてへんよなあ」
「あはは、そうやね。残念やけど、今年はもう無理かな」
「ほな来年やな! 来年は絶対にどっちもしよう。約束やで!」
「……うん、約束、ね」
窓から差し込む夕陽のせいで逆光になって、彼女の顔がよく見えない。けれど弱々しく消えた語尾が、なんだかとても嫌だった。
サヤはもしかしていま泣きそうになってるんじゃないかって、子どもながらに不安になった。
彼女は時々こんなふうに、とても淋しそうに顔を歪ませるんだ。俺はこんなにも近く、すぐ目の前にいるっていうのに。