あの夏よりも、遠いところへ

彼女に会う口実になるのなら、俺は望み通り、ずっとピアノを弾いたって構わない。

……なんて、まさか口にはできないけれど。


「蓮はオーケストラの演奏、聴いたことある?」

「ううん、ない」

「そっか。オーケストラて、めーっちゃたくさんの人数で演奏するんは知ってる? でもピアノやと、その膨大な規模の曲を、たったひとりだけで演奏することができるねんよ」

「へえ……」

「ピアノ曲も素敵やけど、オケのピアノアレンジはもっとすごい。音符を全部ひとりじめできるねんで」


ベートーベンの有名な曲の序盤を、サヤの繊細な指が力強く弾いた。

すっげえ。いつもは優しく白と黒の上を撫でているはずの指なのに、こんなにも強く鍵盤を叩けるのか。


「……私な、オタマジャクシになりたいねん」

「オタマジャクシ?」

「うん。音符って、オタマジャクシに似てるやろ? このかわいいオタマジャクシになって、真っ直ぐな五線譜の中を泳ぎたい」


ああ、たしかに。オタマジャクシ。言われてみれば似ているかも。


「でもそしたら、ひとりじめできひんやん」

「……ふふ、揚げ足取るなんて、蓮はいじわるやね」


その発想はなかなかだと思うけど、俺はやっぱり、こんな暑い日には冷たいプールの中で泳ぎたい。

来年はふたりでプールに行って、もっと自由で気持ちいい水の中を、彼女に泳がせてやろう。溺れたって俺が助けてやるんだ。
< 17 / 211 >

この作品をシェア

pagetop