あの夏よりも、遠いところへ
彼女に会う口実になるのなら、俺は望み通り、ずっとピアノを弾いたって構わない。
……なんて、まさか口にはできないけれど。
「蓮はオーケストラの演奏、聴いたことある?」
「ううん、ない」
「そっか。オーケストラて、めーっちゃたくさんの人数で演奏するんは知ってる? でもピアノやと、その膨大な規模の曲を、たったひとりだけで演奏することができるねんよ」
「へえ……」
「ピアノ曲も素敵やけど、オケのピアノアレンジはもっとすごい。音符を全部ひとりじめできるねんで」
ベートーベンの有名な曲の序盤を、サヤの繊細な指が力強く弾いた。
すっげえ。いつもは優しく白と黒の上を撫でているはずの指なのに、こんなにも強く鍵盤を叩けるのか。
「……私な、オタマジャクシになりたいねん」
「オタマジャクシ?」
「うん。音符って、オタマジャクシに似てるやろ? このかわいいオタマジャクシになって、真っ直ぐな五線譜の中を泳ぎたい」
ああ、たしかに。オタマジャクシ。言われてみれば似ているかも。
「でもそしたら、ひとりじめできひんやん」
「……ふふ、揚げ足取るなんて、蓮はいじわるやね」
その発想はなかなかだと思うけど、俺はやっぱり、こんな暑い日には冷たいプールの中で泳ぎたい。
来年はふたりでプールに行って、もっと自由で気持ちいい水の中を、彼女に泳がせてやろう。溺れたって俺が助けてやるんだ。