あの夏よりも、遠いところへ
彼女はそのきれいな指を俺の頬に伸ばして、ゆっくりと、慈しむように撫でた。
「サヤ……なあ、どこ行くん?」
「遠いところ」
「ほな、その旅行が終わったら、また会えるやんな? ……なあ?」
視界がぐにゃりと歪んだけれど、必死で我慢した。泣き顔なんてかっこ悪いもん、サヤに見られてたまるかよ。
「大まかには弾けるようになったけど、細かいところはまた、自分で練習しといてな」
「サヤ……っ」
「この曲が完璧に弾けるようになったら、きっとまた会えるで」
『パガニーニの思い出』の楽譜をそっと俺に手渡して、彼女は笑う。
「……分かった。俺、めっちゃ練習する。すぐ完璧にしたる。サヤのことびっくりさせたるからな!」
「ふふ、ほな、すぐに旅行から帰ってこなあかんなあ」
嘘だと思う。帰ってくるとか、また会えるとか、そういうの全部、たぶん嘘だ。
けれどやっぱり、信じたくて、自分で嘘だということを暴きたくなくて、彼女の瞳を強く見つめた。薄い茶色の瞳は、まるでガラス玉みたいだ。
「……蓮、ほんまにありがとうね」
なんでお別れみたいな台詞を言うんだよ。
本当は手を伸ばして、彼女の髪に触れたかった。触れて、優しく引いて、赤いくちびるにくちづけたかった。
どうして俺はこんなにも子どもなのだろう。言いたいこと、ひとつも言えねえよ。