あの夏よりも、遠いところへ

涙が落ちそうになったとき、俺は彼女の手を振り払って、背を向けていた。


「……もう、ほんまに帰るわ」

「そっか。宿題、がんばって」

「おう」

「元気でな、蓮」

「……おう」


声は震えていなかっただろうか。背中は、ちゃんとかっこよく見えているだろうか。


「……っじゃあな!」


地面を蹴って、振り返らないで自転車にまたがった。出会ったあの日と同じ。転がるように坂を駆け下りると、ぬるい向かい風が頬を撫でる。


これでおしまいだなんて、嘘みたいだ。

あしたもあの部屋の前に行けば、白いレースが揺れていて、その向こうには黒いピアノがあって。そしたらサヤが、笑顔で冷えた麦茶を持ってきてくれる気がするのに。


俺は非力な子どもだから、きっとサヤも、なにも言わなかったんだ。

もし俺がもう少し大人だったら。
もし彼女よりも背が高かったら。

そんな馬鹿げた想像をして淋しくなるあたり、俺はまだまだ、子どもだ。


……けれど、信じていてもいい?

こんな子どもにも分かる嘘を、俺だけは、最後まで信じていてもいい?
また会えるって、思っていてもいい?


……なあ、サヤ。俺、死ぬほどピアノ練習するからさ。

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