あの夏よりも、遠いところへ

ふう、と息をついて、もう一度鍵盤に向き直る。

色褪せた『パガニーニの思い出』の楽譜は、どこか甘い香りがした。サヤの部屋の匂いが、1か月経ったいまでも消えないんだ。

すげえよ。あの毎日はもうすでに、俺にとって夢か現実かも分からないってのに。

この楽譜に残されたいくつもの書き込みも、きっとずっと、消えないのだろう。


「兄ちゃーん」

「何やねん、まだなんかあるんけ」

「お母さんが呼んでんで」

「メシ?」

「ううん、ちゃう。ご飯作ってへんもん」

「はあ?」


もう少しでメシだと言っていたのに、いったいどういうことだよ。

スミレに言われるがままリビングに向かうと、そこには慌ただしく出掛ける準備をするオカンがいた。


「ああ、ごめん、蓮。あと野菜炒めるだけやし、やっといてくれへん?」

「どしたん」

「これからお母さん、礼服に着替えてお通夜行かなあかんねん」

「オツヤ?」

「うん。4丁目の岸谷(きしたに)さんところの娘さんが亡くなったんやって」


年頃の息子の前で堂々と着替えるうち母親も考えものだけれど、事態が事態だしまあ仕方がない。スミレのズボラなところは、きっとオカンに似たんだ。
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