あの夏よりも、遠いところへ
仕方なくフライパンを火にかけた俺に、オカンは申し訳なさそうに「ありがとうね」と声を掛けてくれた。
「たぶんすぐ帰ってくると思うけど、ちゃんとお風呂済ませとくんやで。蓮、スミレをよろしくね」
「はいはい」
「お父さんももう帰ってくると思うから、岸谷沙耶(さや)ちゃんのこと、伝えてあげてね」
「はーい」
……いま、さらりと。聞き流してしまった。聞き流してしまいそうになった。
偶然かもしれない。偶然であってほしい。
「……オカン、いま、なんて?」
「えー? だから、お父さんにも伝えといて、て」
「ちゃう。名前、なんて……?」
「名前? 岸谷沙耶ちゃんやで。たぶん蓮は知らへんと思うわ。昔から病弱で、ずっと家のなかにいはったみたいよー。ああ、でも、ピアノが上手やったみたいで、岸谷さんところの前を通るといつもきれいな音色が聴こえてきてねえ……」
オカンの声が遠ざかる。そんな馬鹿なこと、あるはずがねえよ。きっと偶然だ。サヤという名前も、ピアノも、全部、偶然に決まっている。
だってサヤはいま、遠いところを旅行しているだけなんだぜ?
「……蓮、どしたん? 真っ青な顔して」
「オカン……俺も、行く」
「えー? あかんよ、スミレがひとりになってまうやろ」
「行く!」
行って、そのひとはサヤとは別人だと、確認してえんだよ。