あの夏よりも、遠いところへ
 ◇◇

俺が再びそこを訪れたのは、あの日から1週間が経った、暑い午後だった。

さすがにインターホンを鳴らす勇気は無かった。だから前と同じ部屋の窓の前に行ってみた。


……ああ、きょうも聴こえる。サヤのピアノ音。

細い糸を紡ぐような旋律に、まるで全神経を縛り付けられているみたいなんだ。これ、なんていう曲なんだろう。きれいだ。


「……あ。蓮、来てくれたんやね。声かけてくれたらよかったのに」

「だって……演奏中やったし」

「ふふ。外は暑いやろ? なか入ってええで」

「えっ、でも……」

「ええから、ね?」


言われるがままに靴を脱ぎ捨て、恐る恐る足を踏み入れる。

……うわ、どうしよう。めちゃくちゃ甘い匂いだ。これが女の匂いなのか。どうして妹やオカンとは全然違うんだ?


「きょうはなにしとったん?」

「午前中は学校。終業式やってん」

「じゃああしたから夏休み? ええなあ、いっぱい遊べるね」


何気なく返事をしてみるけれど、身体はカチンコチンに緊張して動いてくれねえし、困った。棒立ちの俺を見て、彼女が小さく笑う。


「蓮、緊張してる?」

「し、してへんっ」


なに言うとんねん、してへんわけがないやろ!

ふいっと顔を背けると、黒くてぴかぴかしたピアノが目に入った。重々しい見た目のそれと比べて、Tシャツをぺらりと羽織っているだけの自分が、なんだか恥ずかしくなった。
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