あの夏よりも、遠いところへ
あれが、いつもサヤが弾いているピアノ。すげえ。間近で見るとでっかいんだ。
「蓮も弾いてみる?」
「えっ!?」
「だってじいっと見てるから。興味あるんやろ?」
栗色のさらりとした髪が揺れる。瞳を覗き込まれてどきりとしたけれど、なぜか今度は逸らすことができなかった。
透明だ。手を伸ばしたら消えそうだな。
「……さっきサヤが弾いとったやつ、なんていうん」
「さっきの? ショパンの『パガニーニの思い出』かな」
ショパン。聞いたことだけならある。音楽室に肖像画も貼ってあったと思う。……顔は思い出せないけれど。
「そっかあ、ショパンなあ。ショパンはちょーっと難しいから、まずはちゃんと基礎から勉強しよな」
「練習?」
「そう、練習。ピアノて、そんなすぐ弾けるようになるもんちゃうねんで」
へえ、そうなんだ。つまり、妹は全然練習しないから、あんなにヘタクソなんだな。
ほお、と頷く俺の手を彼女が優しく引いて、そっと鍵盤の上に乗せる。鍵盤って、思ったよりもひんやりとしているんだ、意外だ。
「右手の親指、真っ直ぐ下ろしてみ?」
「え……」
言われたままにすると、ぽろんと、なんとも情けない小さな音でピアノが鳴いた。
なんだよ、全然違うじゃん。サヤの音はもっと優しくて甘くて、それでいて繊細なのに。