海淵のバカンス


第一章、海底園



波の音が、二人の鼓膜を震わせる。
ここは、研究室に指定している小さな空き家。
兎々は、有能な研究者であり、現25歳という若さで複数の科を背負っている程の実力者であった。
波人は、写真家だった。
色々な写真を撮り、色々な物を追い掛ける放浪生活をしていた。


「海風さん」
「ん?」


砂浜のように白いソファに腰掛け本を広げる兎々に、フィルムを確認していた波人が思い立ったように呼び掛ける。
あくまで本から顔を上げずに、兎々は波人の問い掛けに応じる。
そんな兎々の態度を、気にもせずに波人は兎々の眼前に現像した写真を差し出す。
根本的に気難しい気質なのか、眉間に皺を寄せる兎々に波人は、また穏やかな笑みで受け止め、また兎々も深々とした溜め息の後に、波人と同じように眉間の皺を解き微笑んでいた。
波人から写真へ視野をずらすと、写真には兎々が見たことのない陸上生物が、こちらを向いていた。
気持ちの悪い容姿とは裏腹に、背景に伺える景色は、とても綺麗で、そして、その生物の稀少さを露骨に現している一枚だった。
兎々は不意に思う。

ーこいつは…。

ーこいつは、何を思い、そして、何を見ているのだろう。
ー少なくとも、私よりは世界を知っているのだろう。
ーしかし、私にも、こいつのしらない世界を知っている。
ー嗚呼、ダメだ。
ーこれは言えないんだった。
ー不思議だ、この喪失感はなんだろうか。

長い思いを一瞬にして駆け巡らせ、また無頓着な兎々へ戻る。
その時、不意に手へ熱が走る。


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