海淵のバカンス


「また、」
「え」
「また、別の世界を見ているね」


波人の大きな手によって、兎々の華奢な手は包まれていた。
人より体温が低い兎々の手に、波人の平均体温は熱く感じられる。
そして、一瞬、兎々の中で時間の流れがピタリ、と止まる。
影が、兎々を覆い被さり、口が、肺呼吸が、脳の通信路が、世界が、全て塞がれた。


ー嗚呼


眼前に広がる波人の顔に、唇に当たる柔らかな感触に、キスしているのだと冷静に理解した。
目を横へ向ければ、大きな円形の窓があり、柔らかな月明かりが柔和に崩れながら部屋を、二人を包む。
海底園と呼ばれるには、相応しいのかもしれない。
窓の外は、満潮となり、魚が窓をつつく。
角度次第に、あの大きな月が遥か空に歪んで映り込み、どれほどの満潮の深さか分からせてくれる。


「海風さ…」


するり、と兎々は波人から離れる。
そして、窓へ手を付き、月明かりをシャワーのように浴び、これほど、これほどかと言う程の柔らかな笑みを浮かべ、その手を押し込んだ。





此処は、海底園なのだ、と微笑んで。


それが、彼女なのだと。



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