箱の中の彼女


 若い子は、毎日忙しい。

 新しい経験がどんどん積み重なり、古いものは忘れ去られていく。

 美奈子は、孝太のことを思い出しながら、仕方のないことだとため息をついた。

 あっという間の、三ヶ月。

 孝太にとっては、三ヶ月など経過したことさえ、気づいていないかもしれない。

 美奈子にとっては、待ち遠しい日々だった。

 そんなに早く来るはずはないと思っていながらも、彼がひょっこり「ごめんください」とやってくるのではないかと。

 そう、心のどこかでずっと期待していたのである。

 分かっていたことなのに。

 美奈子は、彼にとっては忘れ去られる側の人間だと。

 はぁ。

 ため息をつきながら、しかし、自嘲的に笑った。

 この声のことは、きっと一生忘れないのではないか、と。

『昔、変な声をした女に助けられたことがある』、と。

 それだけは、彼の記憶の中でずっと残りつづけるのだろう。

 こんな声でも、役に立つこともあるのね。

 そう美奈子は、愉快な気分になったのだ。

 生まれつき、こんな声ではなかった。

 子供の頃、父親と仲の悪かった男に、とばっちりで首を絞められたのだ。

 その時、美奈子は必死で父の名を叫び続けた。

 それは、鶏を絞め殺すときの悲鳴と、さぞやそっくりだったろう。

 飛び込んできた父親に助けられ、命は持っていかれなかったが──声を持っていかれたのだ。

 首を絞めた男は、父によって命を持っていかれかけたが。

 泣きながら、父は美奈子を抱きしめた。

『こんな父ちゃんを許してくれ、美奈子』

 あの時の父親を思い出すと、彼女も泣けてきそうになる。

 そうか。

 少し、心が弱くなった自分に気づきながら、美奈子は目元をこすった。

 そうか、私、寂しいんだ。

 猛烈に、母親に電話をしたくなった。

 美奈子は、受話器を取りに向かう。

 どんな他愛ない話でもいい。

 自分という存在を知っている人と、話をしたかったのだ。

 祖母の家の電話番号にかけようと、市外局番の頭の3つまで押した時。

「あの…ごめんください」

 おそるおそる。

 そんな声が、玄関から聞こえてきたのだった。


 ※


 心臓が飛び出しそうになりながら、美奈子は、受話器の通話停止ボタンを押していた。

 彼の声に聞こえたのだ。

 孝太の。

 いや、違う。

 違うのだ。

 これまで何回か、同じようなことがあったではないか。

 お隣の息子が回覧板を持ってきた時や、宅配がきた時。

 美奈子は、ことごとく最初に間違えたではないか。

 落ち着いて。

 受話器を充電台に戻しながら、彼女は深呼吸をした。

 そして、いつも通りの足取りで、玄関へと向かったのだ。

 ごめんくださいに対して、美奈子は声では答えないクセがついていた。

 ただ、歩いて向かう。

 初めてのお客だと、声で驚かせてしまうことがあるからだ。

 玄関までの距離が、この日ばかりは、たっぷり100メートルには感じられた。

 ふすまを、開けることさえもどかしい。

 ようやく。

 玄関にたどりつくと。

 そこには。

「あの…すみません…来てよかったですか?」

 彼が。

 孝太が、本当に落ち着かない素振りで立っているではないか。

 あぁ。

 たった三ヶ月。

 それが、十年にも感じられたことを、いま改めて美奈子は噛み締めた。

 腫れのない顔に、絆創膏をふたつ。

 三ヶ月前より、大人びて見える。

 ここは。

 美奈子は、自分に言い聞かせた。

 ここは、微笑むところ。

 微笑んで、『来てくれて、ありがとう』というところ。

 なのに。

 ぽろっと、余計なものが目から落ちてしまった。
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