箱の中の彼女


 駅を降りて。

 孝太は、走り出した。

 別にやましいことはない。

 それは、分かっているのだが、さすがに美奈子の家まで他人を連れて行きたくなかったのだ。

 プロボクサーの足、なめんなぁ!

 何度も通ってきて、多少地理に明るくなっていることもあり、孝太は商店街を駆け抜け、裏路地に入り、そのまま美奈子の家まで直行したのだ。

 ごめんくださいという前に、玄関まで入り込んでいた。

 ぜいぜいはぁはぁ。

 そこで、ダッシュのツケである呼吸を整える。

「「孝太くん…?」」

 そんな騒々しい玄関に、美奈子がやってくる。

 嬉しさに、彼が顔を輝かせようとした時。

 彼女の後ろから、スーツ姿の男性が出てきた。

「それじゃあ青木さん、次の仕事の件、頼みますね」

「「はい、わざわざありがとうございました」」

 そう、彼女ににこやかに笑いかける男は、ちらと孝太を見た後、何事もなく行き過ぎようとして、はたと足を止める。

「岡崎…孝太? 新チャンプの?」

 間の悪い時に、来てしまったようだ。

 美奈子は、出版物の翻訳をしている。

 仕事の話をしにきた、ということは──出版関係の人間ということだ。

 こういう時、どうすればいいのか。

「「前にご縁が会って、知り合ったんです。時々、こうして訪ねてきてくれるんですよ」」

 美奈子は、当たり障りのないように男の疑問をかわそうとした。

 だが、その表現は孝太には不満で。

 そんなんじゃなくて、と。

 この間、ちゃんとそういう関係になったじゃないか、と。

「そうだったんだ。よかったらうちの出版社の取材、受けてくれないかな…君なら大歓迎だよ」

 男は、名刺を出して孝太に渡すと、ついでに握手も求められた。

「今度から、岡崎孝太くんの取材の時は、青木さんを通すかな…ハハハ」

 うさんくさい軽やかな笑いを浮かべつつ、彼は去って行く。

「ええと…」

 ようやくお邪魔虫がいなくなって、孝太は彼女を見上げる。

「ええと…会いに来ました」

 名刺をぐしゃっとポケットに突っ込みながら、彼は胸を張って宣言した。


 ※


「「毎日…孝太くんを見てたわ」」

 お茶を出しながら、美奈子が話し始める。

 ま、毎日!?

 1週間ほど来られなかったのに、どうやってと思ったら──彼女の目が、テレビに向いた。

「「だって、毎日のように孝太くんが出るんだもん」」

 笑いながら言われて、孝太は少し恥ずかしくなった。

 変な映り方してなかったかなとか、アホなこと言ってなかったかなとか。

「今だけ、みたいです…すぐ静かになるって言われました」

 若くて強いから、ちょっともてはやされているだけなのだ。

 それくらい、孝太だって分かっている。

 チャンピオンになる前から、応援してくれたおっちゃんたちの方が、よっぽどファンとしては嬉しかった。

「「相変わらずね。私は、この一週間、孝太くんを見ながら、いろいろ考えてたわ」」

 思い出したように、彼女は薄く微笑む。

「お、オレも美奈子さんのこと、考えてました! 会いたかったです!」

 自分のことを、考えていた。

 そう言われて、嬉しくないはずがない。

 美奈子が、孝太のことを。

 テレビで毎日見ながら、考えていてくれたなんて。

「「孝太くんのこと、本当に何にも知らなかったんだなって」」

 少し、寂しげな声。

 孝太は、首をひねった。

「オレも美奈子さんのこと、何も知りません。だから、大丈夫です」

 ひねりながらも、お互い様だと安心させようとしたのだ。

 孝太理論に、美奈子は困った表情を浮かべる。

「「ごめんね、いまだから言うけど、私、孝太くんをスポーツ選手だと思ってなかったの」」

 何を、言おうとしているのだろう。

 首を斜めにしたまま、彼は美奈子の言葉を聞き続ける。

「「ええとね…うちの父、ヤクザものだったのよ。この辺じゃ有名な」」

 はぁ。

 初めて聞く事実ながら、孝太は『そうなんですか』くらいにしか受け止めようがなかった。

「「スポーツ選手が、ヤクザの娘と付き合ってるって…良くないんじゃない?」」

 これは──危険な話の流れだった。
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