Over Line~君と出会うために
「あー、その、これは、マネ……じゃない、職場の人に無理やり病院に連れて行かれて……」
「そんなことになるくらい、仕事が忙しかったの?」
「いや、だから、俺は別に平気なんだけど、心配性の人が」
 どう説明すればいいのだろう、と考えながらぼそぼそと喋っていると、彩がすっと近くに寄って来た。
「貴樹」
 その声音には、この前の電話の冷たさは欠片もない。見上げてくる瞳に、どきりとする。その眼差しにどこかほっとして、今なら話せるかもしれないと思って、貴樹は彩の名を呼んだ。
「……彩、俺、あの」
 言い出しかけた、その瞬間。
 彩の指先が、貴樹の頬に触れた。そのことに驚いて、貴樹は動きを止める。
 ゆっくりと近づけられる、唇。え、と戸惑いながらも、それを拒む理由なんてなかった。触れた唇は少し冷たくて、それでいて、温かさがあった。頬を撫でる長い黒髪に、貴樹は続けようとした言葉を飲み込んだ。
 黄色いくまを抱いていた腕を解いて、そっと彼を横に置いた。そして、ためらいながらも彩の背中に腕を回した。
甘やかに触れ合う唇は、やがて深く熱く、熱を帯びて。
「ねえ、許して、くれるの……?」
 何を、とは聞かなかった。
 絡まる吐息に、思考があやふやになる。自分の声さえ、どこか遠くで聞こえてくるような、甘い錯覚。
 何度となくキスを、する。間近で見る彩の顔は、やっぱり綺麗だと思った。
 そして、久しぶりに誰かのぬくもりと共に眠った夜は、蓄積した疲労や悩みを全て洗い流すための充分な休息を与えてくれたような気がした。
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