月宮天子―がっくうてんし―
  ***


愛子が海と別れ、家の方に曲がろうとしたそのとき、正面に見える北案寺の山門辺りから妙な音が聞こえた。

そう、ちょうど愛子がチキンレッグステーキにかじり付くときとか……或いは、スペアリブを骨までしゃぶるときとか……。

ピチャピチャ、クチャクチャとやけに耳障りな音だ。

愛子の理性は逃げろと警告を発している。だが、怖いもの見たさの好奇心がそれを押し切り……とうとう、愛子は足を山門のほうに向けてしまったのである。


電柱に付けられた蛍光灯はかなり手前にあり、山門の辺りは真っ暗だった。

石段の下からでは何も見えない。愛子は足音を忍ばせ、そうっと一段ずつ上がり、山門をくぐった。

そのとき、カランと足元に何かが触れる。

目を凝らし、恐る恐る拾い上げた、それは――警棒だった。


そう言えば、駐在所の警官が、愛子の不審者発言を受けて、巡回して警戒にあたると言っていたのを思い出す。なんだお巡りさんか、と愛子は一瞬安堵した。

だが、警棒を放り出して何をしているのだろう? と、新たな疑問が浮かぶ。


暗がりに目が慣れ、枯山水の池の奥、石組みの傍に人影が見えた。


「あの……さっきのお巡りさんですよね? 何を」


なさっているんですか? と続けるつもりが、振り向いた彼の顔を見た瞬間、愛子は言葉を失う。

その顔は愛子の覚えている人ではなかった。

いや、正しくは……すでに、人と呼べるものではなくなっていたのである。


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