柔き肌に睦言を
「入選した連絡だけちょうだいね。そしたらあたし、その絵見たい」
当然だ。睦美は絵のモデルをしに、忙しい中ここへ来てくれたのだ。才能の無い絵描きにいつまでも付き合ってはいられないのだ。それに、私は睦美の親友ではないし、恋人や愛人でも、ない。何者でもないのだ。それは高校生の時から現在まで、何ら変わることのない事実なのだ。
帰り際、玄関で折りたたみ傘を取り出しながら睦美が微かに頬を赤らめた。
「連絡、ちょうだいね。待ってるからね。絶対、入選してね」
私はうまく返事ができずに、ただ睦美を見つめたまま大きくうなずいた。
「しのちゃんの夢を聞いたときね、うらやましいと思ったんだ。やりたいことにまっすぐ向かって行けるのってうらやましい。それで、あたしももう一度がんばりたいと思ったの。あたし子供ができて美容師辞めちゃったから」
「また、美容師やるの?」
「ブランクあるし、できるかわからないけどね。こんな気持ちになったのはしのちゃんのせいだよ」
「せい?」
おかげではないのか。平穏な日常に波風たててしまったせいか。
「だから、あたしもがんばるから、入選しなかったら、入選するまでがんばって。そしたらあたし達、きっとまた会えるから」
私が熱くしたのは睦美の体だけではなかった。心をも、熱くしたようなのだ。
「ありがとう。私また睦美ちゃんに会いたいから、これでお別れなんて嫌だから、絵、描くよ。全力で描くよ」
「ちょっと動機は不純だけど」
くすっと笑った。
その笑顔を、三ヶ月近くたった今でも、昨日のことのように鮮明に記憶している。
睦美をモデルに愛情込めて描いた絵は無事に出品を終え、あとは連絡を待つばかりだった。
思えば高校生のあのときも、追試を逃れるためだったのだから、動機は不純だった。昔も今も出品動機は不純だ。けれど描いているときの精神の純粋さと言ったら! 自分で言っていて恥ずかしくなるほどなのだ。
そんな不純さと純粋さとを持ち合わせているのが、誰あろう睦美なのだ。必ずまた会いたい。私の、ふしだらな女神に。
もし入選を逃せば、女神は遠のく。無職の身には出品料もなかなか痛い。
睦美モデルならいけると思いたいが、早々に転職情報誌を買いに走りたい気もする。
弱気に傾いていたその時、台所のカウンターの上で七月の空みたいな色をした電話機が音をたてた。遠慮のない大音量、愛すべきダイヤル回線。
私は急いで受話器をとる。頭の中を睦美の柔肌でいっぱいにして。
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