EVER BLUE
マンションの下で恵介と別れた晴人が家に戻ると、部屋で寝ているように言い付けたはずの千彩が和室の畳の上で龍二を抱えて眠っているではないか。これは泣いたか…と顔を覗き込み、不意に後ろからかけられた声にハッと息を呑んだ。

「泣いてたのはりゅーちゃんです」

覗き込んだ千彩の顔は、涙の跡があるどころかどこか穏やかに微笑んでいるように見えて。腕の中の龍二の頬に涙の跡があることを確認し、晴人はそのままゆっくりと千彩の頭を撫でた。

「ありがとうな、ママ」

晴人や恵介にしてみればまだまだ幼い千彩なのだけれど、子供の前ではしっかりと母親を務めている。その事実に、晴人の胸は喜びと寂しさの入り混じった複雑な思いでいっぱいになった。

「こうやって大人になってくんやなぁ、お前は」
「ちーちゃんはママです。セナもそう思ってます」

珍しく擦り寄って来た聖奈を抱き、晴人は柔らかい頬に自分のそれをぴたりと寄せた。

「お前はホンマにお利口な娘や」
「はるのこともパパだと思ってます」
「そうか、そうか。パパは嬉しいぞ」

ギュッと抱き締めると、うっ…と小さく声が洩れる。それにあははっと笑い声を上げ、晴人はそのまま畳の上に腰を下ろした。

「なぁ、セナ」
「何ですか?」
「龍二、暫くここで一緒に暮らすことになったからな」
「どうしてですか?」
「んー」

聖奈の言葉に、「始まった…」と晴人は胸の内で小さくごちる。
これを言い出したが最後、聖奈という娘は納得がいくまでとことん突き詰めてくる。大人の事情、とだけ説明してしまおうと思っていた晴人は、それが叶わないことを悟った。

「龍二のパパな、疲れてもうたんやて」
「疲れたんですか?何に?」
「子育て、かな。今まで一人で頑張ってきたから、ちょっと休憩させたった方がええんちゃうかと思ってな」
「はるも疲れますか?」

聖奈の言葉に「そうやなぁ…」と間を置き、晴人はゆっくりと小さな頭を撫でた。

「俺は平気や」
「どうしてですか?」
「俺にとって千彩とお前は「幸せ」なんや」
「幸せ…ですか?」
「せや。二人とも生きててくれてありがとう、って毎日思ってる」

もうダメかもしれない。と、絶望を覚悟したあの日。

手術室から先に出てきた聖奈は、産声を上げることさえ出来ないくらいに衰弱していて。それでも、その小さな体で何とか生を繋いでくれた。

衰弱しきった体で聖奈を産んだ千彩は、丸一日が過ぎても眠り続けていて。漸く目を覚まして笑ってくれた時は、愛おしくて愛おしくてたまらなかった。

あの日の恐怖とそれに代わる喜びを、晴人は10年経つ今でも忘れたことがない。

「お前らがおるから、俺は頑張れる。お前らがおるから、生きてて良かったって思える」
「はるは…ちーちゃんが大好きですね」
「好きや。千彩がおらん世界なんか、俺には苦痛なだけや」
「セナは…」

じっと見上げる聖奈の瞳は、千彩と同じ色をしている。黒目がちのその瞳は、千彩と同じく真っ直ぐに自分を映す。それが晴人には愛おしくてたまらない。

「千彩は、お前を助けてくれって言うたんや。自分は死んでもええから、聖奈を助けてくれって」
「ちーちゃん…」
「せやからお前は無事に産まれることが出来たんやで、聖奈」

愛しい我が子だ。と、心底そう思う。千彩が自らの命と引き換えにしてでも守ろうとした我が子を、晴人が愛さないはずがない。

「俺の世界は、千彩とお前で成り立ってる。どっちが欠けてもあかんのや」
「はる…大好きです」
「俺も大好きや」

くすんと鼻を鳴らして擦り寄った聖奈を腕に抱き、「これでこそ千彩の娘だ」と晴人は思う。

「愛はな、苦しくてしんどい。でも、世界が変わるくらい幸せなもんなんや。俺は千彩に出会ってそれを知った。お前が生まれて、またそれを知った。幸せやで、俺は」
「セナも…幸せです」
「龍二のパパはな、一人ぼっちでその幸せを守ろうと頑張ってきたんや。頑張り過ぎはよくない。休憩も必要やろ?」
「はい」
「せやから、暫く龍二はここで一緒に住むからな?」
「わかりました」

どうやら納得したらしいは聖奈は、ゴシゴシと目を擦り始めていて。それをやんわりと制し、小さな体を抱いたまま晴人はポンポンと背中を叩いた。

「お前らは俺が守ったる。心配せんとゆっくり寝ろ」

あの日出会った「幸せ」と、その「幸せ」が生んだ更なる「幸せ」。そして、「幸せ」を知らない子供。全てを自分の手で守ると誓い、晴人は聖奈の頭にそっと唇を寄せた。
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