EVER BLUE

思い出に変わる日

大きなお腹の妊婦を連れ、恵介は三木家の扉の前で深呼吸をした。

鈴音と結婚すると晴人に宣言して数ヶ月。既に入籍を済ませ、結婚式は来月末に行う予定になっている。その招待状を職場で手渡そうとしたところ「週末家に持って来い」と言われ、恵介は今この場に立っている。

「恵介?」
「んあ?」
「インターフォン押さんの?」
「ん?押すよ。押す、押す」

そう言って伸ばした指が震えているのを見て、鈴音はため息を噛み殺した。

「やめる?」
「え?」

覗き込まれ、恵介はインターフォンを押す寸前で手を止めた。

自分が結婚した相手は、元は晴人の恋人だった女性で。無理矢理、というわけではないし、どちらかと言えば晴人が無理矢理に引いて押しつけた形だったけれど、奪ってしまったことに変わりはない。

普段はお気楽な恵介も、鈴音の件に関してはそうお気楽ではいられなかった。


「人の家の前で陰気な空気を漂わせんな。阿呆めが。さっさと入れ」


オートロックの鍵を開けてから一向にインターフォンを鳴らさない夫婦を不審に思った晴人が扉を開けると、そこにはどんよりと暗い影を背負う親友の姿があって。パシンと頭を叩くと、何か言いたげな恵介がキュッと唇を噛んだ。

「はよせんか。もうメシ出来るぞ」
「あぁ、うん」
「はるー」
「あー、はいはい。すぐ行く。入れ」
「お邪魔…します」

数ヶ月前ならば「入れ」などと言う暇も無く、当たり前のように「ただいまー!」と帰って来ていたのに、ここ数ヶ月の恵介はどうだろう。千彩と聖奈が不審がるのも無理はない。と、晴人は大きく扉を開いた。


「久しぶり、せーと」


大きなお腹を抱えた妊婦は、以前自分の恋人だった人物。思わず動きを止めた晴人に、鈴音は噛み殺したはずの苦笑いを零した。

「おぉ」
「会いたなかったって顔しとる」
「んな顔してへんわ」
「あのさ、せーと…」

「ねー、何してんのー?」

なかなか戻らない晴人を追って出てきた千彩が、晴人の腰に纏わり付く。そんな千彩の頭を撫でる晴人の優しげな表情を見て、鈴音は何かふっ切れたようににっこりと笑った。

「こんにちわ、奥さん。初めまして」
「こんにちわー!けーちゃん何してるん?入らへんの?」
「え?うん。入るよ」

玄関で立ち尽くす恵介の腕を引き、無邪気な千彩が嬉しそうに笑った。

「キレイな奥さん!ねー?はる」
「え?あぁ…せやな」

いくら過去のこととは言え、さすがの晴人も少し胸が痛む。同じく微妙な表情をしている恵介と視線を通わせ、二人して緩く首を振った。

「ちーちゃん、おなべがふきそうですよ」
「わー!大変!」

パタパタと駆け寄って来た聖奈を押し退け、千彩は再びキッチンへと駆ける。残された大人三人を見上げ、聖奈はゆっくりと首を傾げた。

「入らないんですか?」
「入れ言うとるのに、恵介がゴネてんねや」
「気にすることないですよ。ちーちゃんはおニブさんです」

うんうんと頷く聖奈に目を丸くしたのは、言わずもがな男二人で。慌てて聖奈を抱え上げると、晴人は声を押し殺して幼い聖奈に問い掛けた。

「何で知ってんねん」
「セナは何も知りません」
「嘘つけ」
「知りません」

頑固な聖奈は、決して口を割らない。わかってはいるけれど、やはり驚きは隠せなかった。

「セナ、あのな…」
「セナは何も知らないので、何も言いません」

そう宣言する聖奈を下ろし、晴人は改めて娘の察しの良さを恐ろしく思った。

「取り敢えず入れや」
「あぁ…うん」
「りんも」
「お邪魔しまーす」

男二人に比べて罪の意識の軽い鈴音は、大きなお腹を抱えてよいしょと靴を脱ぐ。それに釣られて靴を脱いだ恵介は、鈴音の背を支えながら重い足取りでリビングへと向かった。


白い皿に、彩りよく盛られた料理。ほぼ毎日のようにここで夕食をごちそうになっていた恵介には見慣れたものでも、鈴音にとってはほぅっと息を洩らすほどに見事なものだった。そして、それが晴人の手料理だという事実が余計に鈴音の感嘆を濃くする。

「せーと、料理なんかするんや」
「ん?おぉ」
「何か変な感じ」

「せーとって誰?」

何かを察した千彩が、ベタリと晴人の腰に纏わりつく。こんなところばかり鋭い。と、苦笑いを噛み殺した晴人は、ゆっくりと千彩の頭を撫でた。

「俺や、俺」
「何でせーとなん?」
「恵介が読み間違えたんや」
「読み間違えた?」

首を傾げる千彩を連れたまま、晴人はカウンターに手を伸ばす。メモ用紙に「晴人」と書いて、その上に「はると」と振り仮名を振って千彩の前に差し出した。

「俺の名前、晴人やろ?」
「うん」
「これ、晴天の「晴」やろ?」
「う…ん?」
「晴天の「晴」なんや。せやから、これを「せーと」って読み間違えてん。あっこにおるおバカさんが」

チラリと視線を遣ると、ソファに座ったまま項垂れている恵介の傍で、不思議そうに首を傾げた聖奈がじっとその様子を観察していて。思わず洩れた晴人のため息に、千彩よりも鈴音が先に反応した。

「ため息ばっか」
「ん?」
「昔っからそうやん。うちが何か言う度に「はぁー」って」
「それはお前がわがままばっか言うてたからやろ」
「そんなことないわ」

付き合っていたのは、もう20年近く前になる。けれども、鈴音の中にはしっかりと晴人の記憶が刻まれていて。別れの記憶は最悪だけれど、やはり良い思い出ばかりが蘇る。

「懐かしいなぁ。夏休みさぁ、ずっと一緒におったよね」
「え?あぁ、おぉ」
「そうそう。そんな返事しとった、しとった」
「ちょ!りん!ストップ!」

嬉しそうに笑う鈴音を止めたのは、ソファで項垂れていたはずの恵介で。今更止めたところで…なのだけれど、上手く言い訳を紡ぐ自信の無い晴人は、その場の流れに身を任せることにした。

「ちーちゃん、あのな?」
「ん?」
「あのー…」

感付いているのか、いないのか。千彩は眉間に皺を寄せて難しげな顔をしていて。慌てて言い訳を探す恵介も、「あのー…」と言ったっきり黙り込んでしまった。

「もうええわ。余計なことすんな」
「いや、でも…」
「千彩には俺が言う」

晴人の言葉にハッと息を呑んだのは、他でもない鈴音で。しまった…と言わんばかりに口元に手を当て、恐る恐る晴人を見上げた。

「ホンマお前は…考え無しに喋る癖直せよ」
「ごめん」
「うちの嫁さんなぁ、こう見えて手ぇかかるんやぞ」

ポンッと千彩の頭に手を乗せ、晴人は少し屈んで千彩と視線を合わせた。何が何だかわからない。と、首を傾げる千彩に、晴人は優しい声音を紡ぐ。


「俺とコイツ…恵介の奥さんな、学生時代に恋人同士やったんや」


― 恋人同士 ―

その言葉に、千彩は大きく目を見開いた。そして、ゆっくりと視線を鈴音の方へと向け、キュッと唇を噛んで晴人の胸に擦り寄る。

「大丈夫や。心配要らん」
「ちーちゃん、あのー…黙っててごめんな?」

やはり連れて来るべきじゃなかった…と、恵介は重くなる気持ちを隠せない。

晴人に対して罪悪感があるのは勿論だけれど、千彩にとっては知りたくない過去だ。それがわかっているからこそ、今の今まで恵介は黙っていたのだから。

「はる…」
「ん?」

胸に擦り寄ったまま見上げると、優しげに笑う晴人の顔が見える。もう一度顔を伏せてグリグリと額を擦り付けると、千彩は顔を上げてにっこりと笑った。

「何でもない。ご飯食べよー?ちさお腹すいた」
「おぉ。せやな」
「ちーちゃん?」
「けーちゃん、結婚おめでとう!」

満面の笑みを見せる千彩に、恵介はグスリと鼻を鳴らす。
そうだ。千彩が祝福してくれないはずがない。と、気まずそうに小さくなっている鈴音の肩を抱き、恵介は深く頭を下げた。


「晴人、ちーちゃん、それからセナ。俺の奥さんの鈴音です。夫婦共々、これからもどうぞよろしくお願いします」


纏っていた重い空気はどこへやら。過去を振り切った恵介の笑顔は、清々しいほどに爽やかな、晴々とした笑顔だった。

「改めてよろしくな、鈴音さん」
「何よ!そんな呼び方せんでもええやん!」
「いやいや。もう「りん」とは呼べんやろ」
「別にええやんか。うちだって「せーと」って呼ぶし」

「それはダメです。はるはちーちゃんのなので、えんりょしてください」

腰に両手をあてて頬を膨らませる聖奈を抱き上げ、晴人はケラケラと笑い声を上げた。

「手強いぞ、うちの娘は」
「うー…みたいやね」
「はるはちーちゃんのです!」
「当たり前や。俺は千彩と聖奈の晴人や」

聖奈を抱き上げたまま千彩の肩を抱き、晴人は嬉しそうに笑う。それに釣られて、千彩も、恵介も、鈴音も笑った。

「ちさです。仲良くしてください」
「こちらこそ」

そんな和やかムードの大人達を見ながら、やはり聖奈は不満げで。ぶぅっと頬を膨らませたままの聖奈に、晴人は頬ずりをした。

「愛してるよー、セナちゃん」
「もうっ!そうゆうのはちーちゃんにしてください!」
「何や。パパの愛が受け取れん言うんか?」
「セナはいいです」

イヤイヤと首を振る聖奈を奪い取り、今度は恵介が頬を寄せた。

「セナはほんまお利口やなー」
「けーちゃんがおバカさんなだけです」
「俺!?」
「家族にナイショはなしです」

ギュッと抱きつく聖奈の頭を撫で、恵介は再びくすんと鼻を鳴らした。

「ごめんな、セナ」
「もういいです」
「大好きやでー、セナ」

そんな二人のやり取りを横目で見ながら、晴人は千彩と鈴音、二人の手を取る。

「ちぃ、仲良くするんやで?」
「うん!」
「あっまー。うちにはいっつも冷たかったのに」
「喧しい。あの頃の俺とはちゃうんや」

はいはいー。と笑う鈴音と、にこにこしている千彩。そして、どこか照れくさそうに視線を逸らす晴人。そんな三人の姿を見ながら、恵介は過去の罪を遠い思い出にした。
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