音匣マリア
その日の朝早くに私は蓮のマンションに見積書を取りに行った。


6時半なんて早い時間なら、隣の人達とは顔を会わせなくても済むだろうと考えて。


目的の見積書は、居間のマガジンラックの中で見つけた。このお客さん、一度はうちの式場の契約をキャンセルしたのに、今になってやっぱりうちが良いって言い出したんだ。新しく見積書を作るのも20分ぐらい時間はかかるから、それだったら前に作成しておいたこの見積書のコピーで十分なはず。


みつかった事にほっとして、玄関の鍵を蓮から貰った合鍵で閉めてエレベーターへと歩き出した。


エレベーターが上がってきて、その中から出てきた人とすれ違いに中に乗り込んだけど、何故か私の体は箱の中から引っ張り出されていた。


元いた廊下に戻されて、どうしてそうなったのかが分からず、自分の腕を見ると誰かにがしりと腕を掴まれている。


腕から目を離し、上を見上げると、そこにいたのは蓮の部屋の隣人の山影さん…とかいう人だった。つまり、真優さんの彼氏さん。


その人が、なんで私にこんな事するの?


不思議に思って山影さんに話しかけた。


「あの……。なんでこんな事……」


山影さんに対しても真優さんと同様、警戒心は解かないでいる。だって、この人だって女の人を叩くぐらいだし、まともそうに見えても何をするかは分かったもんじゃない。


「ああ、ごめん。ちょっと、真優の事で話したい事があるんだ。今、時間貰えないかな?」


二人で?私が山影さんと?


絶対に嫌だよ。


「今は忙しいから無理です。会社に遅刻するし」


遅刻はしないだろうけど、あの人の事に時間を取られるのなんか真っ平だし。それに私達には関係ないし。これ以上引っ掻き回されたくない。


「君と君の彼氏に関わる話なんだ。どうしても聞いてほしい。……また、真優に潰されるカップルを見るのも辛いし……」


今でも邪魔されて、充分迷惑なんですけど。それより山影さんは今、[真優さんに潰されるカップル]って言った?


「真優さんが潰す…って、どうして……?」


山影さんは頭をボリボリと掻いて、めんどくさそうに溜め息をついた。


「今がダメなら今日の夜、時間ある?真優が何をしてきたか、多分今から君らに何をしようとしているのかを話しておきたいから」

「……少しだけなら……」

「なら、夜どこかで待ち合わせようか。どこでも良いけど」

「国道沿いの、コーヒーショップでお願いします」


了解した山影さんは、私に携帯の番号を教えるよう頼んできたけど、それは断った。



何に悪用されるか分かんないのに、そこまで世間知らずな真似はできない。



山影さんの話が一体どんなものかの見当もつかず、その日の仕事はまるで上の空だった。




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