月陰伝(一)
多くの悲鳴が聞こえる。
薬が切れたのだろう。
徐々に、正気に戻った人々が、それまでの恍惚とした表情を一変させ、ゆっくりと恐怖に歪めていった。

「っ開けろッ」
「助けてぇッ!」

いつの間にか、扉は全て固く閉じられ、開く事ができなくなっていた。
皆、少しでも遠ざかろうと必死だ。
人が動いた事で視界が拓け、前方の舞台が見えるようになった。
それは、暴走と言った方が正しいだろう。
何者かと話していた会長と呼ばれる男は、今は何かに取り憑かれたように、無差別に刀を振り回し、人々を悲鳴と共に消していく。
その度に、人であった黒い塵が、刀に吸い込まれ、不気味に脈を打つように見えた。

「っ…どうしよう…。
…おねぇちゃんっ…」

隣で震えているのは、娘の美輝ちゃんだ。
祈るように手を組み、目を固く閉じている。
つい先ほどまで、不安に震え、肩を抱き励ましていた妻は、今は俺の手を離れていた。
全てを見届けるのだと言って、一歩離れた所で、真っ直ぐな視線を前に向けている。
消えていく人々の姿を、目を背けることなく見つめている。

「っ…俺、行ってくるっ」
「なっ夏樹!?」

突然、それまで何かに耐えるようだった末っ子は、雪仁の制止も聞かずに走り出した。

「大丈夫っ。
逃げ遅れた人達を、そっちに誘導するから、兄貴達は扉を何とかしてくれっ」

そう言って、混乱する人々の中へ入っていった。

「っまったく……お父さん。
頼みがあります」

改まって雪仁が告げる。

「何だ?」

動揺を見せないように、努めて冷静に。

「扉の事は、恐らく外に行った結ちゃんが何とかしてくれます。
ですが、このパニック状態の人々を、このまま外に出すのは危険です」

結華ちゃんが、どうにかする…か。
なら、今まだ開かないのは、結華ちゃんの意思では?

「そうよ」

雪仁の言葉に同意したのは、妻だった。

「昔……こんな状況に出会った事がある…。
その時は、船も沈む寸前で、あちこち火の海だったわ…。
けど、その火や爆発によって亡くなった人はいなかった。
最も死者を出した原因は、パニックを起こして、船から海へ飛び込んだ事…」

なるほど…ここは海の上。
だが、パニックを起こし、逃げ出したいと思う人々は、船から逃れたい一心で、海に飛び込む。
内である船から、外界である海へと逃れようと考えるのだ。

「この人達を鎮めなくては、どのみち助かりませね…」
「そう言う事です」

思わぬ方からの声に驚いて振り返る。

「っ……結華ちゃん?!」

そこには、美しく微笑みを湛えた、結華ちゃんが立っていた。


< 119 / 149 >

この作品をシェア

pagetop