猫 の 帰 る 城



真優はそう言うと、デスクに転がった携帯電話を手に取った。

小さな液晶画面が青白く光る。
片手で何度か操作したあと、僕にそれを差し出した。


黙って受け取る。真っ白な画面に、女性が浮かんでいた。
視線を落としたその顔から、膝のあたりまでが写真に収まっている。

たかだか、数センチ四方の画像だ。
それなのに僕の胸は呆れるほど動揺した。

先ほど街の巨大ビジョンで見た彼女が、手の中にいたのだ。

少し伸びた髪に、意志の強い黒目がちな瞳、何度も重ねた柔らかな唇。
あの頃よりもっと美しくなった彼女が、僕の右手で笑っていた。


長い間、毎日少しずつ、それでも確実に削ってきた記憶と感触の破片が、あっという間に合わさったかと思えば、大きな塊を作っていく。

それは夏の日差しが反射して、小さな光をたくさん散らし、僕の胸を熱くした。

復元されていく彼女の映像が、あまりにきれいで、ぼろぼろで、憎らしい。

その甘い苦しさに、目まいがする。


「…そこのサイトの、専属やってるって」


小夜子の頭上には、サイトのロゴが記されていて、たったさっき、CMで見たものと同じだった。
様々なアパレルブランドを扱う、オンラインのショッピングサイトだと、真優は言う。


「…前から知ってたんだけど、怖くて、ずっと黙ってた。でも、もういいの」


真優はそう言って俯いた。

髪に隠れて表情が読めない。
ただ、その肩が震えていると気づいたとき、僕は言葉に詰まった。


目の前で、涙が落ちる。

瞬きのように一瞬のことで、それでも確実に、僕の目の前でそれは光った。


「もう、いいんだ。滅茶苦茶なやり方だってことも、ヒロに気持ちがないってことも、わかってた。それでも、あたしを見て欲しかったから。だけど、やっぱり無理だね。傍にいるだけじゃ、苦しいだけだったよ。ヒロは、あたしじゃ、駄目なんだもんね」



ああ、僕は。

僕はなんて馬鹿だったのだろう。

わかりきっていたことじゃないか。
小夜子でよく懲りていたはずだった。

都合のいい、気持ちのない恋愛など出来るはずもないと、誰よりもわかっていたはずなのに。


人を好きになる。
それは、意志だとか、計算だとか、論理なんかではどうにもならない。

心の、自分でも計り知れないどこか奥底で、ある日突然生まれて、気づかないうちに育って、むやみやたらに嬉しくて、かと思えば、ほんの些細なことで、精神を蝕む憎しみにも、悲しみにも変わる。

それを誰よりもよくわかっていたはずなのに。

僕は結局、真優にいちばん言わせてはいけないことを言わせてしまった。


「ごめん、真優」


誰かを傷つける。

どうしようもない憎しみをもって、何のはばかりもなく誰かを傷つける。
そのほうが、遥かに正当だと思った。

無意識ほど惨たらしく、無慈悲なものはないというのに。


それでも、真優は笑って首を振った。
乾かない目元をぬぐい、顔をあげる。


「謝らないでよ。きっと、誰が悪いとかじゃないんだよ。仕方のないことなんだって、気づいたの。ねえ、そんな気持ちになれるのって、生きていて、そうたくさんあることじゃないよ」


手の中の光が、そっと消えた。
再び夕闇に包まれた部屋で、真優は僕のその手を握った。

小さくて、柔らかい、繊細で、優しい。


真優の濡れた熱に触れて思った。

この手では、駄目なのだ。

僕はこの手を振り払ってでも、気まぐれで我儘な、大胆で意志の強い、骨の浮いた手が欲しいのだ。



人間は贅沢だ。
もっと無欲で、残酷でなければ、こんなふうに誰かを傷つけたりはしない。

けれど、感情の方向も、質量も、何もかもすべてが同じであれば、こんなふうに特定の誰かを心から欲したり、その行く先の恐怖に、胸を焦がしたりするだろうか。


真優の言うように、それは仕方のないことなのかもしれない。


僕が顔をあげると、真優はまた少しだけ笑って見せた。
涙で濡れたその目が、閉ざされた世界に新たな道をつくる。


「行かなきゃ。行くべきだよ」


夕闇の中、真優の声だけが、しっかりと僕の胸を掴んだ。



























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