猫 の 帰 る 城
*
どれくらいの時間が経ったのかはわからない。
僕に背を向け、ずっと黙ったままだった真優が口を開いたとき、すでに日は暮れていた。
沈んだ太陽の、わずかな光がカーテンを照らすだけで、他に何もない空虚な空間に、真優の低い声が響いた。
「時間だよ」
布の擦れる音が続く。
ベッドから抜け出した身体が、暗闇に浮かび、その柔らかなラインが、僕の脱がせたニットをかぶる。
僕はその姿をぼんやりと見つめて、小さく息を吐いた。
溢れていたものが満たされた僕は、けだるい満足感に包まれていた。
ゆっくりと上半身を起こし、時刻を確認する。
バーテンはそろそろ出勤しなければならない。
溜息まじりに時計から視線を移すと、テーブルの皿に目がとまった。
手をつけられないまま冷めた料理が、薄暗い部屋でじっとしているのに気付いた。
息を失ったビーフシチューを、真優が手に取る。
表面に張った膜が破れると、中のシチューがどろりとうねった。
それを前に、僕は口がきけなくなった。
「…もう、いなくなったんだから、あたしにも勝ち目はあるんじゃないかなって、思ってた」
真優は皿をテーブルに戻して言った。
陶器の音が、胸に重い。
丸くなった背中が、じりじりと迫るように語りかけてくる。
「恋なんて、きれいなものは一つもないし、過去になったら、もっとそう。振り返った自分の人生に、ただ立っている人になるだけだって。それなら、今度は、目の前の人を、見てくれるんじゃないかなって」
真優の髪が揺れて、こちらに振り向くと確信したとき、僕は息を止めた。
暗がりのなかに浮く彼女の目は、僕の身体を越えた欲望を見透かしている。
彼女は少しだけ悲しそうに笑って、残酷なことを言う。
「でも、駄目だったね。ねえ、ヒロはずっと、誰を見て、誰を抱いてたの」
「真優」
「あたしは、ずっと、ヒロだけを見てる。それなのに」
真優の息が荒くなる。
怒りや興奮ではなく、張り裂けそうな悲痛の吐息。
一度堰を切ってしまえば、あとは無残な空っぽになるだけだ。
真優の口から、今にも消え入りそうな悲鳴が漏れる。
「それなのに、ヒロは、過去の人ばかり見てる。どうして。どうして、小夜子さんは、もう、ここにはいないのに。目の前のあたしのことは、見てくれないの。そんなに、あたしじゃ駄目なのかな」
彼女の叫びが砕け、破片となって、僕の心の脆いところを一気に突いた。
稲妻のような亀裂が痛みとともに走る。
真優の叫びは、僕の叫びだった。
この長い間、何よりも繰り返し問いかけてきたことだった。
どうして。
どうして、こんなにも。
小夜子が、消えてくれない。
なぜなんだ。
このままでは駄目だと、行く先のない恐怖を前に思い知った。
だからこそ先に進もうと、決意を持って足を踏み出しているのに。
どうして。
どうして肝心なところで、きみは僕の前に現れるのだ。
逃げることすら許してくれない。
僕はいつまで、きみを求めて、きみのいない世界を歩き続ければいいのだろう。
そう何度問いかけても、ビジョンの中の彼女は応えてはくれない。
ただ、僕の脳に、身体に、心に、いつまでもいて、いつまでも僕を支配し続ける。
僕は真優に何も言えなかった。
僕自身、まだその葛藤の中にいて、答えなど出せなかったからだ。
真優はゆっくりと息を吐いた。
荒い呼吸が次第に落ち着き、冷静さを取り戻していく。
長い吐息とともに、彼女の身体から、悲痛が消えていった。
彼女はもう、答えを出していたのだ。
「…もう、いいんだ。そうやって、ずっと、ずっと苦しんできた。だけど、もういいんだ。もう、いいの」