あの猫を幸せに出来る人になりたい
「花……猫はどうだったの?」

 家に帰って母に言われて、花は「あっ」と声をあげた。すっかり、忘れてしまっていたのだ。

「ごめん、明日見てくる」

 花、反省。

 壁に手をつき、某お猿の芸のように彼女はうなだれた。

 元々、花が体育館の裏に出向いたのは、捨て猫がその辺りにいるという情報が入ったからである。

 きっと生徒が可愛いからと、お弁当の残りなどで餌付けしたのだろうと考え、花が様子を見に行ったのだ。

 場合によっては、シェルターに連れて帰ろうと思っていた。

 しかし、予定外の人間不信の雑種(ミックス)犬に遭遇したため、すっかり忘れて帰ってしまったのだ。

 制服を脱いでハンガーにかけると、花は汚れてもいい普段着に着替えてエプロンをつける。これから、犬猫の世話をするのだ。

「タロはどう?」

 母が家の夕飯の準備をしている間、花は犬猫の夕飯の準備をする。

 そこで、日課のように母にそれを聞いてしまう。

「まだ、何の連絡もないわよ。明日は定期連絡の日だから、ちゃんと様子は分かるわよ」

「そっか」

 カリカリのドックフードを大袋から出しながら、花はとりあえずほっとする。

 いま、タロは『トライアル』中だ。

 タロを飼いたいという人のところに、二週間という期限で一時的に預けている。そのまま、家族と相性が良いようであれば、晴れて本当の飼い主になってくれる、というワケだ。

 もしもダメな場合は、ここに帰ってくることになる。

 花は、特にタロにはこの一年、心を砕いてきたために、うまくいって欲しいと願っている。

 仏壇に眠る祖父母に手を合わせる時に、無関係だというのに、『タロがうまくいくよう守ってやってください』とお願いしてしまうほどだ。

 一年という時間で、タロはだいぶ人間への不信感が拭われるようになったが、それでもまだ臆病で。

 子供のいる家庭へのトライアルだけに、タロが昔の虐められた記憶を呼び起こされたりしないか心配だった。

 あの人も。

 カラカラと、ドッグフードが落ちていく音を聞きながら、ふと花は体育館裏の男子生徒を思い出した。

 あの人も、大丈夫だろうか、と。


 ※


 あ。

 花は、出そうになるその声を飲み込んだ。

 翌日の学校の体育館裏。

 猫を探してやってきたそこで、彼女はまた彼と遭遇したのである。

「よしよし……ほら、食べろよ」

 体育館裏の奥まったところ。

 木の陰に置かれたダンボールの中に、彼は手を入れていた。

 頼りないニャーの声を聞けば、そこに何がいるのかは考えなくても分かった。

 餌付けしてるのは、この人だったか。

 昨日は、彼が逃げた方だったために、花はあえてそっちに近づかないようにして帰った。

 彼のダンボールの中へ向ける横顔は、昨日とまるで違っていて、優しく慈しむ美しいものだった。

 はあ、綺麗な人はいいねぇ。

 羨望の目で、花はついついその横顔に見とれてしまった。

「……!」

 そんな彼の目が。

 びくっと、こちらに向けられる。

 途端に強張る顔の筋肉。さっきまでの表情が、なかったものとしてキャンセルされた。

「……」

 花は、ゆっくりと息を吸って、吐いた。

「猫……」

 そして、一言だけ言った。

 花が興味があるのは、あなたではなく猫です、と。

 ただ、それだけを告げておこうと思ったのだ。

 彼とタロの違いは、日本語が通じるところだ。

 いまはまだ、彼は硬直しているので、花の言葉をすぐに理解できるかどうかは分からない。

 だから、一言だけ言ったきり、彼女は動かずにただそこに立ち続けた。

 視線は、彼ではなく彼の手元に向けて。

 んにゃっと、箱の中で小さな泣き声があがった。

 またも、沈黙の時間が流れていく。猫だけが、そんな空気をものともせず、小さく鳴いているが。

「ね、ねこ……ど、ど、どうするの?」

 おっかなびっくり。

 どもりまくった声は、さっきとは全然違う彼の声。

 少し裏返った、落ち着かない、怯えた音。

 花は、表情を変えないまま、彼の手元を見つめ続けた。

「その猫が、幸せなら何もしません。幸せでないのなら……連れて行こうと思っています」

 静かな静かな彼女の声は、それでも彼の手元をビクリと震えさせる。

「だっ、ダメだ! つ、つ、つ、連れて行かせない!」

 彼にしては声を張った方だろう。明らかな拒絶と共に、彼は白い毛玉を抱き上げ、ぎゅっとその胸に抱きしめる。

 自然と、花の視線も彼の胸元へと向かった。

 紺のタイの側で抱かれる、白い子猫。

「飼い主を探すまで預かるだけです」

 保健所に連れていくわけではないのだと、彼に説明するが、視線の上の方で頭が左右に強く振られるのが分かった。

「い、い、いやだっ。こ、こ、ここで、いい」

 ぎゅうっと猫を抱きしめ、彼は花の言葉に抵抗する。

 ため息をつきそうになって、花はそれをやはりぐっと飲み込む。

 彼だって、好きで駄々をこねているわけではないのだ。抵抗したい感情があり、それを抑えられないだけ。

 あれは、タロ。言葉の通じる、タロ。

 花は、心の中でそう呪文のように呟いた。

「人間の食べるパンやご飯は、子猫に良いものではないですし、牛乳も、おなかをこわしてしまいます」

 淡々と、花は彼の胸の中にいる毛玉のことを、語り始めた。

 ぶるぶると左右に振られる頭。

「ここではノミやダニが、猫につくでしょうし、皮膚炎になることもあるでしょう」

 振られ続ける頭。

「心無い生徒に虐められ、人のことが嫌いになってしまうかもしれません」

 一瞬。

 頭が止まった。

「その猫に……野良の大変さを、味わわせて生きさせたいですか?」

 頭は、止まったまま。

「……」

 彼が、ゆっくりとうなだれるのが分かった。

 視線を落として、胸の猫を見ているのかもしれない。

「その猫が、幸せになる手伝いが出来るところがあります……良かったら、その猫を抱いて来ませんか?」

 無理やり取り上げるのは、彼にとってつらいことだろう。

 納得をして、猫を置いていけるよう、花はお膳立てしようとした。

「……」

 戸惑っているのが分かる。

 花のことを信用しきれていないのと、猫を手放すことを嫌がる気持ちが、ありありと伺えた。

「良かったら、ついてきてください……明日は雨ですよ」

 花は──彼に背を向けた。

 そのまま、一歩も動かずに後方の動きを待つ。

 足音は、近づくか離れるか。

 どちらの音がするか、ただ待つだけ。

「……」

 足音は── 一歩だけ、近づいた。
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