あの猫を幸せに出来る人になりたい
 花は、てくてく歩いて、家路をたどる。

 後ろからそぉっとついてくる気配に耳を傾け、少し離れた気がしたら足を止めた。向こうは、自分の耐えられる距離を分かっているから、適当なところで足が止まる。

 そしてまた、花は歩き出す。

 そんな振り返らない、『だるまさんが転んだ』をしながら、花はかなり奥まったところにある、動物病院兼自宅兼犬猫シェルターへと帰りついた。

 背後に丘を背負っていて、静かな場所だ。

 大通りからは辺鄙過ぎて、こんなところに動物病院があるということを知らない人も多い。

 父親が、最初から犬猫シェルターを併設することを考えて開業したので、住宅街や大通りは避けて病院を建てたのだ。

 おかげで、最初の頃は本業の客が少なくて困ったらしい。いまでは、シェルターから引き取られていった犬猫の飼い主たちが、常連となってくれているおかげで、それなりに繁盛しているようだが。

 ホームページ上でも、病院と犬猫シェルターについては公開されているので、それを見て相談の電話をかけてくる人がいたり、実際に地図を頼りに足を運んでくる人もいる。

 そんな、犬猫の城の前で、花はようやく一度振り返った。

 びくりと震える、猫を抱いた身体。

「ここから、犬猫シェルターに入れます……どうぞ」

 病院の脇にある柵を開けて、花はその中へと足を踏み込んだ。普段であれば、まず自宅に帰って着替えるのだが、今日は特別だ。

 花は、制服のまま病院裏のシェルタースペースへと足を運ぶ。

 柵で囲まれた、ドッグランスペースが、そこには広がっている。

 スペースの周囲には、犬舎がある。猫舎は、奥の建物の中だ。

 花を確認した犬たちが、ケージの中でぴょんぴょんと跳ねて愛情を向けてくれる。

「ただいま、ベス、シロ、チョコ」

 いま、ここで預かっている犬三匹に挨拶をする。

 猫は五匹。出産シーズンであるため、子猫が多く保護される。幸い、可愛い子猫の内はもらいても探しやすい。飼い主になる人が希望すれば、父が無料で避妊手術をするおかげで、メス猫も喜んでもらわれていく。

 そんな猫舎のある建物に近づいて、扉の前で花は足を止めた。

 彼の勇気が途切れることなく、ここまで来られるかどうか気になったのだ。

 足音は──聞こえてきた。

 花が振り返ると、角を曲がってきた彼は、またびくりとして足を止めた。

「ここが猫舎です。猫は、ケージに入れられています。私は、こっちの自宅で着替えてきますんで、それまで好きに見て下さい」

 猫舎は、あまり広いとは言えない。その距離に二人でいるのは、彼が耐えられないかもしれないと思い、花は素直な動きをやめることにした。

 一人で、ここの猫を見て、一人で考えて、そしてゆっくりと決めるといいと思ったのだ。

 彼に必要なのは、『時間』なのだから。

 花は、自宅につながる裏口を開け、中へと入った。パタンと扉を閉めたところで、はぁぁと飲み込み続けた吐息を外へ落とす。

「あら、花。何でそっちから?」

 台所につながっているその土間に現れた娘に、母が不思議そうな声をあげる。

「うん、ちょっといま、子猫を連れてきた人がいて、置いていくか悩んでいるみたいだから、少し静かに悩ませてあげて」

 唇の前に人差し指をたて、花は出来るだけひそめた声で母にそう告げた。

 ああ、と母もすぐに理解してくれたようで、小さく笑う。

 一旦部屋へ戻り、いつものように着替えを済ませてエプロンをつける。再び台所に戻って来た花は、裏口からそっと出た。

 彼の姿は無い。おそらく、猫舎の中にいるのだろう。

 そのまま猫舎に向かうには、時間が短すぎる気がして、裏口の前にあるコンクリートの段差に腰を下ろした。

 それから30分くらいした頃だろうか。

 花が、そろそろ犬猫の夕食の準備をしようかどうしようか悩み始めた頃、そーっと猫舎から制服の足が出てきた。

 おそるおそる首を巡らせて、彼が動物のように辺りの様子を伺うと、すぐに花はその瞳に見つけられた。

 自分が見つけたのに、彼はまたもびくびくと驚いて。

 胸の中には、まだ猫を抱いている。

 彼の視線は一度そらされ、斜め下を向いたまま何かブツブツと呟いた後、もう一度花の方へと向く。

 彼女の足元の地面に、だが。

「あ、あの……や、やっぱり……この猫……か、飼いたい」

 長く長く悩んで、やっと出た結論が、それだったようだ。

「質問して、よろしいですか?」

 彼の胸元の猫に、再び視線を留めながら、花は静かに問いかけた。

「……」

 戸惑いの後、男子生徒はこくりと頷く。

「一軒家にお住まいですか?」

 こくり。

「猫の世話が出来る人が、二人以上、家庭にいますか?」

 こくり。

「他の家族の方は、猫を飼うのに賛成ですか」

「……」

 まあ、そこは頷けないわな。

 花は、最初から分かっていた。

 もしも、彼が猫を簡単に飼える環境であるというのならば、とっくにその猫は家へ連れ帰っているはずなのだ。そう出来ないのには、それなりに理由があるわけで。

「では、こうしましょう。その子猫は、一時うちが預かります」

 びくっと震える身体。

「あな……ええと、先輩は、家でご家族を説得して下さい。無事、説得が出来たら、ここに連絡をしてから、ご家族と一緒に来て下さい」

 呼び方に戸惑ったが、結局『先輩』と呼ぶことにした。同じ学校で、ひとつ年上だと分かっているので、それが一番自然だと思ったのだ。

 エプロンのポケットには、いつもここの名刺が入っている。施設の名前、電話番号、住所、地図、サイトのURLにメアドも。

 これだけあれば彼の家族も、うちに連絡を取りやすいはずだ。

 花はポケットからその小さな紙片を取り出して、しかし、彼には近づかないまま反応を待った。

 戸惑っているのは、家族の了承を得るのが難しいせいだろうか。それとも、一時的に手放すのが怖いのか。

「子猫は預かっている間に、健康診断をしておきます。治療が必要な場合は、治療をしてからお渡しすることになります」

 強くもなく同情めいたものでもなく、機械のように淡々と、しかし、彼の気持ちを思いやって、花は不安事項を消そうとする。

 このやり方が、一番猫にとっても良いことなのだと、辛抱強く彼に理解してもらうしかないのだ。

「……」

 また少し、時間が必要だった。

 彼の沈黙は、考えている証。分かっているからこそ、花はただ立ち続ける。

「……わ、分かった」

 吐息と共にようやく吐き出された言葉は、彼女をほっとさせた。

 ゆっくりゆっくりと近づいてくる彼を、ただ待ちながら、花はタロのことを思い出した。

 両手に抱かれた白い子猫が、そっと差し出される。

 花はそれを静かに受け取って、胸に抱いた。位置を整えると、片方の手を空けてから、彼に名刺を差し出す。

 長くて綺麗な指には、小さな爪の跡。

 子猫のイタズラで、引っかかれたものだろう。

 彼が猫を本格的に飼うとすれば、その傷は常について回ることになるはずだ。

 それが、彼の望みであるならば、早くそうなればいいと花は思った。

「名前……教えていただけますか?」

 昨日出会ってここまで、花は彼に名を聞いていなかった。子猫のことを、親に話さなければならないので、それくらいは教えてもらえると助かるのだ。

 近い距離に留まったまま、しかし彼は今度はビクりとはしなかった。

「倉内(くらうち)……倉内 楓(かえで)」

 綺麗な顔に綺麗な名前。

 両方揃うなんて羨ましい。

 花は、植物の咲き誇った花をイメージしてつけられたというのに、いまひとつパッとしないというのに。

「倉内先輩ですね、この子を迎えに来られる日を、楽しみにしています」

 花は、微笑んだ。

 だから、もうすこしだけ、がんばってください、と。

 彼には親を説得するという、残された大事な任務が待っているのだから。


 子猫を抱いて、母のいる台所に戻る。

「その子、引き受けたのね」

「うん。でも、親を説得してみるって。二週間くらい、猶予をあげてもいいかな。学校の先輩なの」

「いいんじゃない? その子、まだ小さいし……目やにが出てるわね。お父さんとこに、連れていっておきなさい」

 母の穏やかな言葉にはいと答えて、花は子猫を病院の方へと連れて行こうとした。

「ああ、花……タロだけどね」

 母が付け足した言葉に、あっと足を止める。今日は倉内先輩がいたために、日課であるタロのことを聞き忘れていたのだ。

「このまま、もう少し様子を見ますって。トライアルの残りも、あと5日あるし、順調のようよ」

 今日は──とてもいい日だった。
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