【電子書籍化】あの猫を幸せに出来る人になりたい
フルールの誕生日の帰り道。
春の心地よい夕刻の空の下、倉内と一緒に花は歩いていた。家まで送ってくれる紳士の横で、彼女は今日の楽しい思い出を踏みしめて、ふわふわとした気持ちで歩いていた。
「僕は……獣医、を目指そうと、思ってるよ」
そんな楽しくふわふわとしていた花は、彼の言葉に思わず足を止めた。
「え?」
街路の桜の木は青々とした葉を繁らせている。長くなっていく木の影の中に、花はちょうど立ち止まった。一歩先に立つ倉内楓は、影から出たところから彼女を見ている。
「家から通える距離に、獣医学部の大学が、あったから、そこを受験するよ」
「そうですか。えっと、応援しています」
花は絶望した。倉内楓という人間が、自分の人生を左右する大きな決断を、真剣にひとつ年下の花という人間に発表したというのに、月並みな返事しかできなかったからである。
驚いたような、それでいて納得したような、言葉にしがたい感覚が、花の言語中枢を鈍らせた。
ここ最近の倉内楓は、出会う度にに大人への道を突き進んでいるように思えた。身長も骨格も顔も声も表情も。去年は、ところどころに見えていた大人の気配が、一気にその割合を増やしていく。
一足先に成獣になる倉内を前に、花は大きな感動と少しの寂しさを感じていた。この寂しさという感情は、彼女にとって厄介なものだった。
花は自分のペースで生きていくのが好きな人間だ。逆に言えば、人のペースに合わせるのは、得意ではない。
これまで倉内の歩くペースは、花と近かった。向こうが合わせてくれている部分もあったのだろうが、それがとても心地よかった。
けれど春休みの花見のあたりから、強く感じ始めたことがある。彼の一歩一歩が、花が考えるよりも大きな歩幅で力強く踏み出されている、ということだ。
「あの猫を幸せにできる人になりたい」──そう言った倉内は、まだほんの一年前のこと。あの頃の花は、もっと彼が猫というものの幸せをふわっと考えていると、心のどこかで思っていた。
猫や犬を初めて飼う時に抱く、幻想のようなもの、と言えばいいか。ペットと末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし、という物語のようなそれ。
その観点から言えば、当時の花は倉内楓という男を見誤っていたと言っていい。
しかし倉内は、自分の人生に家族としてのフルールを組み込んで描こうとしている。
小さい頃に花が言った「大きくなったら、お父さんみたいに獣医さんになる」という、無邪気で無責任な発言とはまるで違う。生き物に囲まれて育つ過程で、花はその道を無意識に除外するようになっていた、
ペットには飼い主がいて、ペットは飼い主の事情でその運命を大きく左右される。ペットは家族だという人は多いが、飼い主の状況次第では、最初に切り捨てられる立場だ。飼い主が幸福で余力があってこそのペット、なのである。
父が運営する保護シェルターでの現実を、いくつもいくつも見て来た花は、心のどこかで「飼い主」という人たちを信じ切れていなかったのではないか、と自己分析した。だから獣医になりたいという気持ちが少しずつ薄れていったのかもしれない。
そんな自分が静かに消した道を、倉内は進むという。
彼の本気を、花は今になって理解した。本気でフルールを幸せにしようと考えていて、フルールの向こう側にいる、多くの生き物の命にも手を伸ばそうとしているのだ、と。
こんな本気の「飼い主」を、花は初めて見た気がした。いや、違う。二人目だと彼女は訂正した。
一人目は──花の父だ。
食べるための仕事であれば、獣医だけやっていればいい。お金をもらってペットを診察して、それだけやっていればいい。なのに父は、自分でペットを飼うという選択をせず、保護シェルターというボランティア施設を併設した。
花よりも、もっと多くの飼い主とペットを見て来た上で、父が選んだ道。
父より遥かに若い倉内の、いまの姿を見ていると分かる。父親が選んだ道の重さを。そして倉内が選ぼうとしている道の重さも。
高校二年生になって、ふわふわしている自分の足下の軽さがとても恥ずかしい、と思いかけて、待てよと思考を立ち止まらせる。
倉内がこの決断に至るまでの期間は、一年。これは、ちょうど去年の今頃から始まった物語だ。
花はいま、まさに去年の彼と同じ時間に立っている。彼女にはこれから一年がある。倉内の通る道と。花のそれは違うだろうが、まだ彼女には時間が残されていた。
よかった──花はこの時、心底思った。
倉内楓より、ひとつ年下で本当によかった、と。いまの彼の一歩は花よりずっと大きく強いけれども、それに花は気づけた。素晴らしいお手本が目の前にいる。こんな幸運は、なかなかない。
「花、さん?」
彼女の様子がおかしいことに、倉内も気づいたのだろう。
「楓先輩は、すごい人ですね」
「え?」
「尊敬します」
「え、ええ?」
「楓先輩と出会えて、本当によかったです」
「え、えええ……ちょ、ちょっと、待って」
思いつく限りの誉め言葉をかき集め、花はこの気持ちを倉内にぶつけようとした。しかし、それはあまりに重すぎたのか、彼は赤くなりながら視線を空に逃がしてしまう。
不意打ちにはまだ弱いのか、かなり見る機会の減った以前の倉内が現れる。こんな彼を見られるのも、もうあと少しだろう。
花はそんな彼に笑い声をあげながら、一歩踏み出した。桜の青葉の影から出て、歩き始める。立ち止まっていた彼をすいっと簡単に追い越したが、成長の速度はそうはいかない。
それが嬉しくて寂しくて悔しくて、二歩三歩四歩と足を踏み出す。
「花さん、待って」
戸惑い続けていた倉内が、慌てて追いかけてくる。
花は足を止めずに振り返って、こう言った。
「私の方が、楓先輩をいっぱい待たせると思いますよ?」
「え?」
影、日向、日向、影、日向──倉内楓は花に追いついて、不思議そうに首を傾げてみせた。
春の心地よい夕刻の空の下、倉内と一緒に花は歩いていた。家まで送ってくれる紳士の横で、彼女は今日の楽しい思い出を踏みしめて、ふわふわとした気持ちで歩いていた。
「僕は……獣医、を目指そうと、思ってるよ」
そんな楽しくふわふわとしていた花は、彼の言葉に思わず足を止めた。
「え?」
街路の桜の木は青々とした葉を繁らせている。長くなっていく木の影の中に、花はちょうど立ち止まった。一歩先に立つ倉内楓は、影から出たところから彼女を見ている。
「家から通える距離に、獣医学部の大学が、あったから、そこを受験するよ」
「そうですか。えっと、応援しています」
花は絶望した。倉内楓という人間が、自分の人生を左右する大きな決断を、真剣にひとつ年下の花という人間に発表したというのに、月並みな返事しかできなかったからである。
驚いたような、それでいて納得したような、言葉にしがたい感覚が、花の言語中枢を鈍らせた。
ここ最近の倉内楓は、出会う度にに大人への道を突き進んでいるように思えた。身長も骨格も顔も声も表情も。去年は、ところどころに見えていた大人の気配が、一気にその割合を増やしていく。
一足先に成獣になる倉内を前に、花は大きな感動と少しの寂しさを感じていた。この寂しさという感情は、彼女にとって厄介なものだった。
花は自分のペースで生きていくのが好きな人間だ。逆に言えば、人のペースに合わせるのは、得意ではない。
これまで倉内の歩くペースは、花と近かった。向こうが合わせてくれている部分もあったのだろうが、それがとても心地よかった。
けれど春休みの花見のあたりから、強く感じ始めたことがある。彼の一歩一歩が、花が考えるよりも大きな歩幅で力強く踏み出されている、ということだ。
「あの猫を幸せにできる人になりたい」──そう言った倉内は、まだほんの一年前のこと。あの頃の花は、もっと彼が猫というものの幸せをふわっと考えていると、心のどこかで思っていた。
猫や犬を初めて飼う時に抱く、幻想のようなもの、と言えばいいか。ペットと末永く幸せに暮らしました、めでたしめでたし、という物語のようなそれ。
その観点から言えば、当時の花は倉内楓という男を見誤っていたと言っていい。
しかし倉内は、自分の人生に家族としてのフルールを組み込んで描こうとしている。
小さい頃に花が言った「大きくなったら、お父さんみたいに獣医さんになる」という、無邪気で無責任な発言とはまるで違う。生き物に囲まれて育つ過程で、花はその道を無意識に除外するようになっていた、
ペットには飼い主がいて、ペットは飼い主の事情でその運命を大きく左右される。ペットは家族だという人は多いが、飼い主の状況次第では、最初に切り捨てられる立場だ。飼い主が幸福で余力があってこそのペット、なのである。
父が運営する保護シェルターでの現実を、いくつもいくつも見て来た花は、心のどこかで「飼い主」という人たちを信じ切れていなかったのではないか、と自己分析した。だから獣医になりたいという気持ちが少しずつ薄れていったのかもしれない。
そんな自分が静かに消した道を、倉内は進むという。
彼の本気を、花は今になって理解した。本気でフルールを幸せにしようと考えていて、フルールの向こう側にいる、多くの生き物の命にも手を伸ばそうとしているのだ、と。
こんな本気の「飼い主」を、花は初めて見た気がした。いや、違う。二人目だと彼女は訂正した。
一人目は──花の父だ。
食べるための仕事であれば、獣医だけやっていればいい。お金をもらってペットを診察して、それだけやっていればいい。なのに父は、自分でペットを飼うという選択をせず、保護シェルターというボランティア施設を併設した。
花よりも、もっと多くの飼い主とペットを見て来た上で、父が選んだ道。
父より遥かに若い倉内の、いまの姿を見ていると分かる。父親が選んだ道の重さを。そして倉内が選ぼうとしている道の重さも。
高校二年生になって、ふわふわしている自分の足下の軽さがとても恥ずかしい、と思いかけて、待てよと思考を立ち止まらせる。
倉内がこの決断に至るまでの期間は、一年。これは、ちょうど去年の今頃から始まった物語だ。
花はいま、まさに去年の彼と同じ時間に立っている。彼女にはこれから一年がある。倉内の通る道と。花のそれは違うだろうが、まだ彼女には時間が残されていた。
よかった──花はこの時、心底思った。
倉内楓より、ひとつ年下で本当によかった、と。いまの彼の一歩は花よりずっと大きく強いけれども、それに花は気づけた。素晴らしいお手本が目の前にいる。こんな幸運は、なかなかない。
「花、さん?」
彼女の様子がおかしいことに、倉内も気づいたのだろう。
「楓先輩は、すごい人ですね」
「え?」
「尊敬します」
「え、ええ?」
「楓先輩と出会えて、本当によかったです」
「え、えええ……ちょ、ちょっと、待って」
思いつく限りの誉め言葉をかき集め、花はこの気持ちを倉内にぶつけようとした。しかし、それはあまりに重すぎたのか、彼は赤くなりながら視線を空に逃がしてしまう。
不意打ちにはまだ弱いのか、かなり見る機会の減った以前の倉内が現れる。こんな彼を見られるのも、もうあと少しだろう。
花はそんな彼に笑い声をあげながら、一歩踏み出した。桜の青葉の影から出て、歩き始める。立ち止まっていた彼をすいっと簡単に追い越したが、成長の速度はそうはいかない。
それが嬉しくて寂しくて悔しくて、二歩三歩四歩と足を踏み出す。
「花さん、待って」
戸惑い続けていた倉内が、慌てて追いかけてくる。
花は足を止めずに振り返って、こう言った。
「私の方が、楓先輩をいっぱい待たせると思いますよ?」
「え?」
影、日向、日向、影、日向──倉内楓は花に追いついて、不思議そうに首を傾げてみせた。