【電子書籍化】あの猫を幸せに出来る人になりたい
二年生編
フルールバースデイ
「フルちゃん、誕生日おめでとう」
「にゃあ?」
二年に進級してすぐ。久しぶりの倉内家にお邪魔した花は、出迎えにきてくれたフルールの前に膝をついて、ここまで幸せに生き延びたことを寿いだ。
しかしフルールは猫。複雑な言葉は分からない。誕生日という概念も分からない。それは猫には関係のない言葉だから。けれど周囲のみなが、フルールに優しい気持ちを向けていることは伝わっているだろう。
今日は倉内家、全員集合だ。倉内の父母に挨拶をして、フルールの側で彼女の健やかな猫生活を見つめる。
フルールへの貢ぎ物は、あらかじめ倉内に断られていた。花と一緒に、フルールをお祝いして可愛がりたいだけ、と伝えられ、その心意気に応えてみせましょうと、花はやる気に満ち溢れた。
最近のフルールのお気に入りは、魚の形をした細長い蹴りぐるみだという。前足で抱き着くように抱え込んで、後ろ足で魚を蹴る姿は、猫の狩猟本能が垣間見える。
「フルール、お待たせ。ケーキよー」
倉内母の手作り猫用ケーキに、けりぐるみを捨てて、軽やかな足取りで近づいてくる。倉内はケーキと対面するフルールの動画を撮影している。一人と一匹の幸せそうな横顔を見て、花も自分の口元が緩むのが分かった。
「一年早かったわねぇ」
「そうだね、猫のフルールだけではなく、人のフルールも来てくれて、とても嬉しいよ」
倉内母と父の会話の中に、あまりに自然に混ぜ込まれた「人のフルール」という言葉に驚いて、花が倉内父を見ると、おちゃめなウィンクが返された。
まさかのウィンク、と花はそれが面白くてさっきの言葉につっこめないまま、口をによによと動かしてしまった。花も小学生の頃にウィンクの練習を鏡でしたことがあるものの、目にゴミが入ったようにしか見えなくてやめた過去があるだけに、本場の人の上手さに心の中で拍手喝采だ。
倉内もできるのだろうかと、ようやく動画撮影を止めた彼を見ると、ばっちりと目が合う。
「花さん、どうかした?」
「おじさまのウィンクが上手だったので、楓先輩も上手なのかな、と?」
「えっ……ど、どうかな……」
思いもしない話を振られて、彼は動揺したようだ。
「楓は、ウィンクできないの? おかしいなあ、小さい頃に教えたはずだけど」
「そういえば……あった、ような」
「あなた、何を教えてるの」
倉内家三人の会話が、まるでコメディドラマのような愉快な空気を作る。
「はーい、では倉内流ウィンクを伝授するよ。花さんも、一緒に覚えていってね」
講師のようなノリで軽く手を叩いて注目を集める、倉内父。表情の動きがとても大袈裟で、演技力を感じさせる。
「まずは、簡単に修得するためにウィンクする目を決めよう。右目と左目を交互に閉じてみて、閉じやすい方を知ろうね、はい、右、左、右、左」
突然始まった掛け声に、花は思わずしたがってしまった。そうすると、自分が人生の中でこんな風に片方ずつ目を閉じるということを、まったくしてこなかったことに気づく。倉内父は片目まばたきの切り替えをゆっくり声で促すが、そのゆっくりさにも最初は対応できない自分に驚いた。妙に力が入りすぎたり、タイミングが遅れたり、両方同時に閉じてしまったり。たかが片目まばたき、されど片目まばたきである。
「閉じやすい方、分かったかな?」
「僕は、左かな」
「私も左でした」
「じゃあ二人とも左目を先に閉じて、右目は意識して大きめに開いてごらん。それがウィンクの景色だよ」
ちょうど向かいが倉内なので、片目を閉じた状態で彼を見ると、彼もまた同じ状態で花を見ていた。
「そのまま閉じている左目を開けて、右目の開いている方を意識しながら、左目だけカメラのシャッターみたいに閉じるからね……はい、閉じる。はい、開ける」
カメラのシャッター──倉内父のその言葉が、花のウィンクの瞬きに音をつけた。頭の中で、カシャリと音が響く。
半分の視界にいる、倉内楓の照れくさそうなウィンクが、花の意識に焼き付いた。
「倉内先輩、ウィンクできてますよ。うまいです。私……ウィンクできてました?」
花は思わず、倉内の方へと身を乗り出していた。
「う、うん……上手、だった、よ」
顔を赤らめた倉内の言葉は、ひどく乱れていた。花は静かに悟った。これは気を使われているのだろうな、と。やはり花のウィンクは、本場のコーチを受けてもいまいちだったようだ。
「楓、褒める時は上手というのではなく……」
「父さん、ちょっと、待って、ちょっと、いま無理……」
父子の会話の横で、花は気を取り直していた。ウィンクはできなくても、日本では困らない、と。
フルールはウィンク練習の間にご馳走を食べ終え、口周りを綺麗に舌と前足で整え終え、ぴんと尻尾を立てて優雅に歩き始めた。その足取りが、花の方に向かってきていたので、彼女は静かに待った。
花の膝に前足を乗せて、フルールが首を伸ばす。「にゃあ」と呼びかけられ、花のシャツに頭をこすりつけてくる。遊びに来る度にフルールを撫でているので、撫でるのが上手なニンゲンという覚え方はされているようだ。
「撫でますよ」
驚かさないようにそっと手を近づけ、頭を優しくなでる。耳の後ろも。フルールが喉をごろごろと鳴らす。
人間より高い猫の体温が、白く艶やかな毛皮ごしに手に伝わってくる。目を細めてなでられる心地よさを満喫している猫に、愛しい気持ちが溢れる。
フルールは花の飼い猫ではないけれども、安心して愛情を注げる猫でもある。大切な友人の大切な猫。フルールの幸せは倉内によって保証されていて、花は何ひとつ心配する必要がない。
このまま幸せに倉内家の家族として年を重ねて、幸せな猫の一生を送ってほしい。ただそれを穏やかに願うだけだ。
幸せな猫を撫で、幸せな気持ちを花も味わっていると、周囲がとても静かに感じられる。そこではっと我に返った。ここは倉内家で、この家の家族全員がここにいるのだと。
そっと視線を向けると、倉内父と母は微笑ましそうに花を見ていた。
倉内は静かに──動画を撮影していた。
注目を浴びていることに気づき、花は恥ずかしくなって顔を赤らめた。
「にゃあ?」
二年に進級してすぐ。久しぶりの倉内家にお邪魔した花は、出迎えにきてくれたフルールの前に膝をついて、ここまで幸せに生き延びたことを寿いだ。
しかしフルールは猫。複雑な言葉は分からない。誕生日という概念も分からない。それは猫には関係のない言葉だから。けれど周囲のみなが、フルールに優しい気持ちを向けていることは伝わっているだろう。
今日は倉内家、全員集合だ。倉内の父母に挨拶をして、フルールの側で彼女の健やかな猫生活を見つめる。
フルールへの貢ぎ物は、あらかじめ倉内に断られていた。花と一緒に、フルールをお祝いして可愛がりたいだけ、と伝えられ、その心意気に応えてみせましょうと、花はやる気に満ち溢れた。
最近のフルールのお気に入りは、魚の形をした細長い蹴りぐるみだという。前足で抱き着くように抱え込んで、後ろ足で魚を蹴る姿は、猫の狩猟本能が垣間見える。
「フルール、お待たせ。ケーキよー」
倉内母の手作り猫用ケーキに、けりぐるみを捨てて、軽やかな足取りで近づいてくる。倉内はケーキと対面するフルールの動画を撮影している。一人と一匹の幸せそうな横顔を見て、花も自分の口元が緩むのが分かった。
「一年早かったわねぇ」
「そうだね、猫のフルールだけではなく、人のフルールも来てくれて、とても嬉しいよ」
倉内母と父の会話の中に、あまりに自然に混ぜ込まれた「人のフルール」という言葉に驚いて、花が倉内父を見ると、おちゃめなウィンクが返された。
まさかのウィンク、と花はそれが面白くてさっきの言葉につっこめないまま、口をによによと動かしてしまった。花も小学生の頃にウィンクの練習を鏡でしたことがあるものの、目にゴミが入ったようにしか見えなくてやめた過去があるだけに、本場の人の上手さに心の中で拍手喝采だ。
倉内もできるのだろうかと、ようやく動画撮影を止めた彼を見ると、ばっちりと目が合う。
「花さん、どうかした?」
「おじさまのウィンクが上手だったので、楓先輩も上手なのかな、と?」
「えっ……ど、どうかな……」
思いもしない話を振られて、彼は動揺したようだ。
「楓は、ウィンクできないの? おかしいなあ、小さい頃に教えたはずだけど」
「そういえば……あった、ような」
「あなた、何を教えてるの」
倉内家三人の会話が、まるでコメディドラマのような愉快な空気を作る。
「はーい、では倉内流ウィンクを伝授するよ。花さんも、一緒に覚えていってね」
講師のようなノリで軽く手を叩いて注目を集める、倉内父。表情の動きがとても大袈裟で、演技力を感じさせる。
「まずは、簡単に修得するためにウィンクする目を決めよう。右目と左目を交互に閉じてみて、閉じやすい方を知ろうね、はい、右、左、右、左」
突然始まった掛け声に、花は思わずしたがってしまった。そうすると、自分が人生の中でこんな風に片方ずつ目を閉じるということを、まったくしてこなかったことに気づく。倉内父は片目まばたきの切り替えをゆっくり声で促すが、そのゆっくりさにも最初は対応できない自分に驚いた。妙に力が入りすぎたり、タイミングが遅れたり、両方同時に閉じてしまったり。たかが片目まばたき、されど片目まばたきである。
「閉じやすい方、分かったかな?」
「僕は、左かな」
「私も左でした」
「じゃあ二人とも左目を先に閉じて、右目は意識して大きめに開いてごらん。それがウィンクの景色だよ」
ちょうど向かいが倉内なので、片目を閉じた状態で彼を見ると、彼もまた同じ状態で花を見ていた。
「そのまま閉じている左目を開けて、右目の開いている方を意識しながら、左目だけカメラのシャッターみたいに閉じるからね……はい、閉じる。はい、開ける」
カメラのシャッター──倉内父のその言葉が、花のウィンクの瞬きに音をつけた。頭の中で、カシャリと音が響く。
半分の視界にいる、倉内楓の照れくさそうなウィンクが、花の意識に焼き付いた。
「倉内先輩、ウィンクできてますよ。うまいです。私……ウィンクできてました?」
花は思わず、倉内の方へと身を乗り出していた。
「う、うん……上手、だった、よ」
顔を赤らめた倉内の言葉は、ひどく乱れていた。花は静かに悟った。これは気を使われているのだろうな、と。やはり花のウィンクは、本場のコーチを受けてもいまいちだったようだ。
「楓、褒める時は上手というのではなく……」
「父さん、ちょっと、待って、ちょっと、いま無理……」
父子の会話の横で、花は気を取り直していた。ウィンクはできなくても、日本では困らない、と。
フルールはウィンク練習の間にご馳走を食べ終え、口周りを綺麗に舌と前足で整え終え、ぴんと尻尾を立てて優雅に歩き始めた。その足取りが、花の方に向かってきていたので、彼女は静かに待った。
花の膝に前足を乗せて、フルールが首を伸ばす。「にゃあ」と呼びかけられ、花のシャツに頭をこすりつけてくる。遊びに来る度にフルールを撫でているので、撫でるのが上手なニンゲンという覚え方はされているようだ。
「撫でますよ」
驚かさないようにそっと手を近づけ、頭を優しくなでる。耳の後ろも。フルールが喉をごろごろと鳴らす。
人間より高い猫の体温が、白く艶やかな毛皮ごしに手に伝わってくる。目を細めてなでられる心地よさを満喫している猫に、愛しい気持ちが溢れる。
フルールは花の飼い猫ではないけれども、安心して愛情を注げる猫でもある。大切な友人の大切な猫。フルールの幸せは倉内によって保証されていて、花は何ひとつ心配する必要がない。
このまま幸せに倉内家の家族として年を重ねて、幸せな猫の一生を送ってほしい。ただそれを穏やかに願うだけだ。
幸せな猫を撫で、幸せな気持ちを花も味わっていると、周囲がとても静かに感じられる。そこではっと我に返った。ここは倉内家で、この家の家族全員がここにいるのだと。
そっと視線を向けると、倉内父と母は微笑ましそうに花を見ていた。
倉内は静かに──動画を撮影していた。
注目を浴びていることに気づき、花は恥ずかしくなって顔を赤らめた。