【電子書籍化】あの猫を幸せに出来る人になりたい
 斎藤花は絶望していた。
 アフリカに行ってみたいという、自分の未来を決めるには偏り過ぎた考えを土台として、彼女は生物学の方向で大学を探してみようと思ったのである。
 そして厳しい現実に直面する。生物学の分野は──理系学部だったのだ。
「動物に……数学が必要なんて……確かに必要だけれども」
 心が折れかけた花だったが、倉内がツーブヤキに残した言葉が甦って顔を上げた。
『すごく遠いからといって、あきらめなくてもいいんだ。遠いことを理由にあきらめるのなら、他のことが理由でもあきらめてしまうから……だから、僕は、あきらめないように頑張るよ』
 彼の言葉を、「苦手な勉強」に置き換えるだけで、同じことが言える。
 後悔しないように、一生懸命頑張ってみよう。そう花は思った。
 しかし、現実は厳しい。ここまで数学を、試験をどうにか乗り切るだけの勉強方法でしかやってきていない花にとって、その学問はあまりにとっつきにくく、とても仲良くなれそうになかった。丸覚えならできるのだが、それでは応用や発展することができない。
「うん……先に、目的を理解してから学ぶ方が、多分花さんには合ってる、と思う」
 どうにか理数系と仲良くなるための糸口を探していた彼女に、倉内楓という天使が舞い降りた。夏服の白い半袖のシャツも眩しい帰り道を、天使と歩く。
「目的を理解?」
「そう……例えば、グラフを作るのはどうして?」
「え? えっと、ぱっと見て、分かりやすい、から?」
「うん……数字だけがずらっと並んでいるより、自分も変化に気づきやすくなったり、他の人にも気づかせやすくなるよね?」
「なるほど……」
「じゃあ、二次関数の目的を考えてみよう」
「二次関数に目的があるんですか?」
 花は驚きのあまり、変な声を上げていた。
「あるよ……たとえば、投げたボールが、何秒後にどこの場所にあるか、とか」
「ボールの場所?」
 突然のスポーツに、花は目をぱちぱちと瞬きする。
「そうそう、xとかyとか見慣れない姿をしているけど、実際はそこに速さや時間の数字を入れて計算すれば、理論上ボールがある場所を教えてくれるようになるよ」
「ボールを投げるのはスポーツなのに、どうして計算が必要なんでしょう……」
「投げなくても分かるようにするため、かな?」
「投げなくても? その発想はなかったです」
「うん、分かりやすいのは建築とかだね。建物を建てる時にもたくさん計算がいるけど、建て終わってから確認して問題が発覚するより、建てる前に計算して問題が起きないようにした方がいいよね?」
「わああ……楓先輩、目からウロコがボロボロ落ちていきます。数学、すごいです……」
「よかった、伝わった?」
 ほっとしたように、倉内の頬と瞳が緩む。花の理数系が苦手という気持ちに、一石を投じれるかどうかという大役を担っていた自覚があったのだろう。
「すっごく伝わりました……分からない分野は、最初にネットで何に使うものか調べてから勉強します。楓先輩、本当にすごいです……私の天使です」
 女同士なら、きゃっきゃと喜びながら抱き着いて感謝を伝えたいくらいだった。いくらかけがえのない友達で、天使のような人だからといっても、男女の節度はわきまえなければならない。
「天使……」
 花の全力の感謝の言葉を受け止めた倉内は、何とも微妙な表情へと変化していた。

 数日後、天使は大天使に昇格していた。
 倉内楓が、一年と二年の数学の要点のまとめのノートをコピーしてくれたのである。それぞれに、どんな場面で使えるものか目的まで書かれている。
 元々自分の勉強用に作っていたものに、少し書き足しただけ、と言われたが、花はそれを両手で捧げ持ち、彼を涙目で見上げながら感謝の限りを尽くした。物理や化学のまとめも、今度渡してくれると言われて、花はもう邪魔にならない範囲で、一生倉内についていこうと心に決めたくらいだ。
 いや、後ろからついていくばかりでは、倉内に何の幸せを渡すことはできない。彼にもらった幸せは、何としても倍返ししたいと、花は心で誓った。
 まずは花にとってはありがたいこの数学の経典を読み解き、自分のものにしなければ、彼の優しさに応えることはできない。
「あら、そんなによくしてもらったの? 何かお返ししなきゃね」
 家で母に、どれだけ倉内が素晴らしいことをしてくれたか伝えると、にこにこしながらそう答える。そんなに軽いものではないというのに。
「物以外で、何か返せればいいんだけど……お菓子なんかで返すのは簡単すぎて、申し訳ないの」
「そうなの? じゃあ、とりあえず次のテストで上がった成績を見せたら?」
「え……テストを?」
「そう、テストを……いい点数を取れたら、問題ないでしょ?」
 母親のにこにこが止まらない。
 目的が決まるということは、そこに行くまでの道筋が大体決まるということで、その道をゆくためには何が必要かも分かるということだ。これまで花が歩いていたのが野原とすると、これからは山あり谷ありのクロスカントリーのコースである。
 あとは、花がその道をひたひたと走っていくだけ、となった。走るのに足りない体力と速度を、これから鍛えていく時間が始まる。
 夜、倉内楓のノートの文字を読みながら、自分のノートを作る。まずは一年の部分から。
「測量、建築、宇宙……宇宙? 星までの距離の測り方……星の距離、すごい」
 思わず二度見してしまった、その壮大な計算方法の名前は──三角関数。サインコサインタンジェントと、呪文のようにごくりと呑み込んで丸覚えしただけの花は、見慣れた三角形が突然脳内で宇宙を飛ぶグライダーに変換されていた。
「数学、コワイ……何なの三角形。何を知ろうとしているの? どこまで行こうとしているの? 地上だけでもいいよ? 地上にいよう?」
 あまりに壮大すぎて、花は思わず三角形を地球に押しとどめようと説得を始めてしまうのだった。
< 32 / 37 >

この作品をシェア

pagetop