【電子書籍化】あの猫を幸せに出来る人になりたい
受験
一月。大学入試の一次試験に当たる共通テストの日が、ついにやってきた。
テストは土曜と日曜の二日間。一日目の今日は、早朝に倉内から『行ってくるね』というメッセージを受け、返事をさんざん悩んだ挙句に『何のトラブルも起きないよう祈っています』と返した。
この気持ちを、どうにか簡潔な言葉で表したかったのだが、花の引き出しの中にはなかった。メッセージに書いた通りトラブルさえおきなければ、きっと彼は力を発揮できるはずだ。
土曜日の今日、花はいつものように寒さをこらえながら、保護されている犬猫の世話を終え、朝食も終え、暖かい家の中でテレビを見ていた。
大学の共通テストの受験日は、毎年何らかのアクシデントのニュースが流れる。
大雪が、電車の遅延が、渋滞が──花はそれらの見出しを見るだけで、胸やけがしそうだった。自分が受験するわけではないというのに。
みんなこんな大変な思いをしながら、試験に臨んでいる。自分の入試の時に、そんなトラブルに見舞われた日には、頭の中に詰め込んだ知識が、全部抜け落ちてしまいそうだ。
いまは倉内の応援をしているだけでいいが、来年は当事者。この底冷えのする緊張感とも、うまく折り合いをつけないといけないだろう。
その日の花は一日中そわそわして、いろんなものが手につかなかった。
「大丈夫。楓先輩は、大丈夫」
呪文のようにその言葉を呟いて、花は遅く進むように感じる時計の針を何度も見た。
夜。窓の外は真っ暗で、こんなに試験は時間がかかるのか、と花が恐ろしさに震えていた頃。
『一日目、終わった。ベストは尽くしたよ』
メッセージが届いて、花は深々と息を吐き出した。試験でへとへとだろうに、連絡をもらえて嬉しいような申し訳ないような気持ちで、意味もなくスマホを上下に振ってしまった。
『お疲れ様でした。手洗いうがいしておいしいものを食べてお風呂であったまって冷えないうちに早めに寝てくだ』
そこまで入力して、花は踏みとどまった。倉内の一日目の試験が無事に終わったことで、緊張感から解放された途端、テンションが上がって自分が饒舌になっているのが分かった。これでは友人ではなく、お母さんだ。
落ち着いて、書いていた文章を一度消す。
『一日目、お疲れ様でした。今日は寒かったですね。フルールに温めてもらってください』
丸くなっている猫のスタンプをペタリ。
『暖房が効いてたんだけど、僕の席は窓に近くて少し寒かったね。でも寒さ対策と暑さ対策を、一応両方していってたから問題はなかったよ』
すぐに返事がくるが、その内容に花は「わぁ」と声が出た。事前の下調べと準備まで完璧である。
冬の試験で、寒さ対策は分かるけれども、暑さ対策とは何ぞや、という気持ちだった。スマホで検索してみると、暖房の効き方や場所によっては暑く感じる席もあると書いてあって、「そんな罠が」と花は茫然としていた。自分がひっかかりそうな罠だと思ったからだ。
暑すぎて頭がぼーっとなりながら試験を受けるなんて、考えたくもなかった。
『貴重な現地の情報ありがとうございます。知らなかったら、来年の私はおでんみたいに煮えていたかもしれないです』
おでんのスタンプと共に送る。
『おでんはおいしそうだけど、煮えないで』
冬に使うことはない扇風機のスタンプが返ってくる。試験の緊張感が緩んだ軽口のやりとりが楽しかった。
二日目。
『いってきます』と『いってらっしゃい』のやりとりで、花の一日が始まる。
いくら休みの日だからといって、昨日に引き続き今日もそわそわして終わるのは良くないと、花もたくさん付箋や動物シールを貼った数学の参考書を開いた。
勉強して、休憩して、時計を見て、昼ご飯を食べる。
テレビでは、まだ一月だというのにバレンタインデーの話が始まっていた。女性たちがわいわいきゃあきゃあと、今年のバレンタイン事情やチョコの傾向などを話していたが、花はそれをぼんやりと見るだけだった。
進学する高校三年生にとって二月は、まだ入試の途中だ。チョコの受け渡しや、勉強の邪魔にならない程度のコミュニケーションは取れるだろうが、浮かれ騒ぐ気にはなれない。
そして三月にはもう卒業式。あとほんの一か月半程度の日付しかない。
目まぐるしく冬を駆け抜ける倉内を応援するごとに、一歩ずつ遠くなる。分かっていても花は応援するだけだ。
彼が卒業しても、友人関係は切れない。それは信じている。
けれど、あまりに一緒に過ごした高校生活が輝いていたから。花は、自分がそれを失うことを惜しんでいるだけだと思った。
違う生活が始まったら、それはそれで綺麗な輝くものもたくさん生まれるはずだ。だから寂しがりすぎる必要はない──そう自分に言い聞かせて、花は自室に戻った。
『無事、共通試験終わったよ。家に帰り着いたところ。はあ、疲れた』
またしても窓の外が真っ暗の時間に、メッセージが届く。
普段倉内は、メッセージで泣き言を言う人ではない。そんな彼が疲れたというのだから、本当にひどく疲れたに違いない。
ほぼ丸一日の試験を、二日連続。気力も体力もごりごりに削れたことだろう。
疲れを和らげる言葉は何かないか。花はスマホを前に考え込んだ。何か馬鹿馬鹿しいことを。倉内が思わず笑ってしまって、疲れていることを忘れてしまうような。
花は頑張って考えて、頑張って入力した。
『お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも……フ、ル、ー、ル?』
可愛い猫が毛糸玉で遊んでいるスタンプ。
『フル』
返信はそこでぶつっと切れていた。
『ごめん、操作を間違って途中で送った。フルールに癒されてくる』
すぐに追加が届く。珍しい。スマホ達人の倉内が、操作を間違うほど疲れているのか。思う存分フルールに癒されるといいと、花は彼の疲労を思って胸を痛めた。本妻のフルールを抱きしめていれば、疲労もとんでいくに違いない。
『ゆっくり癒されて、幸せになってください』
彼が運命の相手と一緒にいられることを、花は喜んだ。
テストは土曜と日曜の二日間。一日目の今日は、早朝に倉内から『行ってくるね』というメッセージを受け、返事をさんざん悩んだ挙句に『何のトラブルも起きないよう祈っています』と返した。
この気持ちを、どうにか簡潔な言葉で表したかったのだが、花の引き出しの中にはなかった。メッセージに書いた通りトラブルさえおきなければ、きっと彼は力を発揮できるはずだ。
土曜日の今日、花はいつものように寒さをこらえながら、保護されている犬猫の世話を終え、朝食も終え、暖かい家の中でテレビを見ていた。
大学の共通テストの受験日は、毎年何らかのアクシデントのニュースが流れる。
大雪が、電車の遅延が、渋滞が──花はそれらの見出しを見るだけで、胸やけがしそうだった。自分が受験するわけではないというのに。
みんなこんな大変な思いをしながら、試験に臨んでいる。自分の入試の時に、そんなトラブルに見舞われた日には、頭の中に詰め込んだ知識が、全部抜け落ちてしまいそうだ。
いまは倉内の応援をしているだけでいいが、来年は当事者。この底冷えのする緊張感とも、うまく折り合いをつけないといけないだろう。
その日の花は一日中そわそわして、いろんなものが手につかなかった。
「大丈夫。楓先輩は、大丈夫」
呪文のようにその言葉を呟いて、花は遅く進むように感じる時計の針を何度も見た。
夜。窓の外は真っ暗で、こんなに試験は時間がかかるのか、と花が恐ろしさに震えていた頃。
『一日目、終わった。ベストは尽くしたよ』
メッセージが届いて、花は深々と息を吐き出した。試験でへとへとだろうに、連絡をもらえて嬉しいような申し訳ないような気持ちで、意味もなくスマホを上下に振ってしまった。
『お疲れ様でした。手洗いうがいしておいしいものを食べてお風呂であったまって冷えないうちに早めに寝てくだ』
そこまで入力して、花は踏みとどまった。倉内の一日目の試験が無事に終わったことで、緊張感から解放された途端、テンションが上がって自分が饒舌になっているのが分かった。これでは友人ではなく、お母さんだ。
落ち着いて、書いていた文章を一度消す。
『一日目、お疲れ様でした。今日は寒かったですね。フルールに温めてもらってください』
丸くなっている猫のスタンプをペタリ。
『暖房が効いてたんだけど、僕の席は窓に近くて少し寒かったね。でも寒さ対策と暑さ対策を、一応両方していってたから問題はなかったよ』
すぐに返事がくるが、その内容に花は「わぁ」と声が出た。事前の下調べと準備まで完璧である。
冬の試験で、寒さ対策は分かるけれども、暑さ対策とは何ぞや、という気持ちだった。スマホで検索してみると、暖房の効き方や場所によっては暑く感じる席もあると書いてあって、「そんな罠が」と花は茫然としていた。自分がひっかかりそうな罠だと思ったからだ。
暑すぎて頭がぼーっとなりながら試験を受けるなんて、考えたくもなかった。
『貴重な現地の情報ありがとうございます。知らなかったら、来年の私はおでんみたいに煮えていたかもしれないです』
おでんのスタンプと共に送る。
『おでんはおいしそうだけど、煮えないで』
冬に使うことはない扇風機のスタンプが返ってくる。試験の緊張感が緩んだ軽口のやりとりが楽しかった。
二日目。
『いってきます』と『いってらっしゃい』のやりとりで、花の一日が始まる。
いくら休みの日だからといって、昨日に引き続き今日もそわそわして終わるのは良くないと、花もたくさん付箋や動物シールを貼った数学の参考書を開いた。
勉強して、休憩して、時計を見て、昼ご飯を食べる。
テレビでは、まだ一月だというのにバレンタインデーの話が始まっていた。女性たちがわいわいきゃあきゃあと、今年のバレンタイン事情やチョコの傾向などを話していたが、花はそれをぼんやりと見るだけだった。
進学する高校三年生にとって二月は、まだ入試の途中だ。チョコの受け渡しや、勉強の邪魔にならない程度のコミュニケーションは取れるだろうが、浮かれ騒ぐ気にはなれない。
そして三月にはもう卒業式。あとほんの一か月半程度の日付しかない。
目まぐるしく冬を駆け抜ける倉内を応援するごとに、一歩ずつ遠くなる。分かっていても花は応援するだけだ。
彼が卒業しても、友人関係は切れない。それは信じている。
けれど、あまりに一緒に過ごした高校生活が輝いていたから。花は、自分がそれを失うことを惜しんでいるだけだと思った。
違う生活が始まったら、それはそれで綺麗な輝くものもたくさん生まれるはずだ。だから寂しがりすぎる必要はない──そう自分に言い聞かせて、花は自室に戻った。
『無事、共通試験終わったよ。家に帰り着いたところ。はあ、疲れた』
またしても窓の外が真っ暗の時間に、メッセージが届く。
普段倉内は、メッセージで泣き言を言う人ではない。そんな彼が疲れたというのだから、本当にひどく疲れたに違いない。
ほぼ丸一日の試験を、二日連続。気力も体力もごりごりに削れたことだろう。
疲れを和らげる言葉は何かないか。花はスマホを前に考え込んだ。何か馬鹿馬鹿しいことを。倉内が思わず笑ってしまって、疲れていることを忘れてしまうような。
花は頑張って考えて、頑張って入力した。
『お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも……フ、ル、ー、ル?』
可愛い猫が毛糸玉で遊んでいるスタンプ。
『フル』
返信はそこでぶつっと切れていた。
『ごめん、操作を間違って途中で送った。フルールに癒されてくる』
すぐに追加が届く。珍しい。スマホ達人の倉内が、操作を間違うほど疲れているのか。思う存分フルールに癒されるといいと、花は彼の疲労を思って胸を痛めた。本妻のフルールを抱きしめていれば、疲労もとんでいくに違いない。
『ゆっくり癒されて、幸せになってください』
彼が運命の相手と一緒にいられることを、花は喜んだ。