せんせい


◆◆◆


『こころ』を読んで
〜先生、わたしはタヌキになりたい〜
3年B組 森田 昌子


恋は、罪悪だろうか。

読み終えてすぐの私を支配していたのは、作中の先生が繰り返し語る「恋は罪悪だよ」というセリフと、それに対しての漠然とした疑問だった。人に自然に備わっている恋心が、何故罪になるのか。
無論、先生がこう述べるに至ったには深い理由がある。学生時代、親友に投げつけた心ない一言。人生を暗く支配する鬱の原因を作ったのは、まさしく若い日の暴走する恋心であったからだ。

先生は過去の恋を悔いている。それが一般的な見方である。しかし、わたしはここで少し立ち止まって考えてみたい。果たして、ほんとうにそうだろうかと。恋は罪悪だと言った先生の真意は、もっと別のところにあるのではないか。このセリフの受け手である“私”(主人公の青年)を軸にして見ると、全く違う世界が開けてくる。

大胆に言おう。
作中の“私”は“先生”に、恋をしている。
鎌倉の海で外国人と連れだって静かに泳ぐ先生を見た時から始まったストーリー。それは、恋。恋なのだ。これは私の邪推ではなく、実際に先生本人から語られる事実である。
有名な言葉「しかし…しかし君、恋愛は罪悪ですよ。」のインパクトに隠されてしまいがちだが、先生はこの前の部分で確かにこう述べている。

「君の心はとっくに恋で動いているではありませんか」

…ここを読んだとき、私は今までの価値観が全くひっくり返ってしまうような衝撃を受けた。
恋!恋で動いていたのか!ああ、先生!そうだったんですね!言われるまで気付かなかった愚かな私をお許しください!書生である“私”が先生に惹かれた、その感情の正体は恋なのだと、先生側からこんなにもはっきり示されているのである。

さて、これを踏まえたうえで読み直すと、今度は全く違った先生像が浮かび上がってくる。先生は、本当は私のことを憎からず思っていたのではないか。
私が先生を求めて止まない衝動を恋と呼ぶのなら、先生が私を拒みきれず次第に心の奥深い部分へ侵入を許していくのも恋なのではないか。侵される悦びを否定しながら、しかし確実に中に入れてしまっている。なんたる深み、なんたる快感…。禁じられた恋ほど燃え上がるものはないのである。

先生はとうとう最期にたったひとり、私を信頼しすべてを打ち明けこの世を去る。先生が私に遺した手紙は、事実上の遺書ではあるが言い換えれば究極のラブレターのように思えるのだ。哀しい結末ではあるが、完成されている。

最後に、告白させて欲しい。

私も“私”と同じ想いに胸を焦がしている。私は“私”がうらやましい。大声で、叫びたい。

森先生、あなたに恋をしている。
いつか、あなたに乞われたい。

田を抜く準備なら、いつでも出来ている。

【了】

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