たなごころ―[Berry's版(改)]
 会場から随分と離れた個室に、狐林学は姿を消した。1ヶ月間まえ、彼の浮気現場に居合わせたときと同じように。笑実はこのときも、学に声を掛けるタイミングを逸していたのだった。
 学を呼び止めてまで、彼に自分の存在を伝えるべきなのか。笑実は逡巡する。何を話せばいいのか、どう決着を付けるべきなのか。気持ちの整理が付けられていない今は、まだ時期ではないのだろうか。笑実はそう結論を出し、踵を返そうとしたが。
 学の消えたドアが、少しだけ開いていることに笑実は気付く。ゆっくりとした足取りで。笑実はドアまで歩み寄った。ドアの取っ手をそっと握り、中を覗き見る。
 見えたのは、会議室のように、長細い白いシーツが被せられたテーブルと。それに沿うように並べられた椅子。間に立つ学の後姿と、もうひとり。椅子に座る男性の姿だった。
 見覚えのない男性に、更に笑実は首を傾げた。垣間見えた雰囲気に、立ち入れないものを感じ、笑実は今度こそ。その場を後にしようとする。ところが。
 笑実が手にしていたクラッチバッグから、軽快な携帯電話の着信音が。静寂に包まれた廊下に響き渡ったのだ。

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