あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 家主のベッドを独占するのは気が引ける、そう言いつのったら、葵が苦笑した。女の人をソファーに寝かして自分がベッドって言うのはありえない、と前置いてから言った。

「あと俺、そこまで我慢強くないんで、今日は隣で寝たら何するかわかりませんよ?」
「は?」
「桜さん、俺があの朝、好きだっていったパーツいくつあったか覚えてますか?」
「――!」

 桜は顔を真っ赤にしてぷるぷると頭を横に振る。

「アレは嘘じゃないですよ?」

 葵はにやりと笑っていった。

「かなり魅力的ですよ。桜さんの体は。中身を知らない男にとっては特に、そういうのしか判断基準ないでしょ?」
「…。でも、葵は私のことよく知ってるじゃん」
「そーですケドネ。でも男の生理ってもんはありますよ? いくらなんでも桜さんだってわかってんでしょ?」
「う…。ごめん」
「甘えてくれてるって言うことで、イイデスケドネ。でも誰に対してもそういうことしちゃダメですよ。…眠りづらいって言うなら、何があったか少し話してくれます?」

 何気に葵は桜の手をとった。手首を優しく撫でられて、親密な気配に少しだけ胸が鳴った。

「あー…。なんていえばいいのかな。ちょっと混乱しちゃって」
「うん、ゆっくり言えるところからでいいよ」
「5年前のトラブルの関係者の話覚えてる?」
「……」
「彼ね、5年ぶりに日本に戻ってくるの。ずっとアジアの方に転勤させられてたんだけど。――それで、配属先が…私と同じ部署になっちゃったの。上司は5年前の件覚えていて、気を使って先に教えてくれたんだけど、やっぱりショックだったんだと思う」
「その人と、一体何が?」
「うーん。なんか全部うまく説明できないんだけど、簡単に言うと私の初めての人、なのね」

 ぴくっと桜の手を握っていた葵の手が揺れた。ただ桜も過去の出来事に溺れるように話していたので、それについては気がつかなかった。

「会社って派閥があったり、いろんな人の思惑があって、私とその人は違う派閥の人間同士だったの。ただ、仕事は密接な部署同士だし、仕事がしやすかったってのもあって、結構なついてたの。彼の悩みとか思いはあまり気にしてなかった」

 シビアな出世レースに関係あるのは男達――。そのときまでの桜は、どこかそう思っていた。
 だから志岐のことは、仕事のしやすい会社の先輩としか当事は思っていなかった。

「その人と、無理やり引き離されたってこと、ですか?」
「違うわよ。隆《りゅう》さん…上司の名前なんだけど。彼はそんなことは絶対しない。私が好きだっていったら、そうかって言って、祝福はしてくれるけど、私を彼の部下として、派閥とか差しさわりのない部署や仕事にしていってくれるでしょうね」
「じゃあ?」
「葵がさっき私に言ってくれたことって、身をもって知ってるの。ただ、5年前の私はものすごく無防備だった」

 昔から、恋だの愛だのってことがよくわからなかった。
 だから、誰かを好きになっておかしくなるとか、誰かと付き合うとか、昔から自分の身には起こらないものだとなぜか認識していた。
 たまに、恋愛が免罪符だと思って、他人に迷惑をかける行為を肯定する輩がいたりしてより一層、若干腰が引ける感覚を感じるようになっていた。
 そもそも、好きすぎて全てのものを排除しようとしたり、根拠なく周りの人間を傷つけたりという感覚がわからない。『好きすぎて』ってのは、なんなんだ、免罪符なのか?と、どこか醒めた感覚でいつも思っている。
 ただ、自分がその感覚がわからないというのと、他の人間が恋愛を大事にするという感覚は別だ。意見や感覚は尊重しているし、そこまで何かを想えるということに確かに憧れもある。

「ま、さか。無理やり、とか?」
「まさか。私も何が起こっているか、望まれているかはちゃんと自覚があったよ」
「でも好きじゃなかった?」
「好きとか、人の気持ちがわからなかった――が正解」
「え?」
「うん。だからうまく説明できないの。自分が簡単に人を傷つけたりすることができるんだって思った。まだ、あの時のこと思い出そうとするとお腹がじんわり冷たくなっていく感じ」

 少し手先が冷たくなった桜の手を、確認するように葵が握りなおした。

「――ただ、私は被害者ではなくて、加害者だった。だから、そのことが起こって、自分のコントロールが効かなくなったの。隆さんに結局お正月休み含めて3週間、無理やり休みを取らされて会社に出てきたときには、全て決着はついてた。彼はアジアの統括的な部隊に行くことになってた。もちろん、隆さんが大分強引な手を使ったツケは私にも隆さんにも回ってきた」

 桜は27歳までの自分が如何に隆に守られてきてたんだろうということを思い起こした。女とか男とか関係なく、仕事と考え方だけで評価して、行動させてくれた。
 ただそのせいで、周りには隆の女と言う噂が立っており、桜にアプローチをかける男はいなかった。そのため、もともと稚拙な恋愛中枢はまったく成長の余地もなかった。
 だからより一層アノコトがあってから、桜は『自分』と『女』の両方のバランスが取れないこともわかっている。…が、わかってはいてもどうしようもない。

「――それぞれ、どっちも問題抱えてて、悪い方に作用したってことはわかってるの。それに、あの3週間の休みがあったから、葵たちにも出会えたわけだしね」
「ああ。あの時は何でこんな終わりかけのサービスに新規で入ってきたんだろうって首をひねりましたよ」

 苦笑交じりで葵が言った。

「ふっ。確かにね。DDOって私が引退して1年足らずで終了したんだっけ? ただ、あの時はどこにも出かける気力もなかったし、仕事から無理やり引っぺがされて、緊急措置的な扱いだったとしても、むしゃくしゃしていたのもあったんだよね。ちょうどインターネット系の業務だったし、じゃーなんか時間がないと出来ないスカッとしそうなサービス試してみるか!って」
「それでいきなりオンラインゲームっすか?」
「ふふ。そうよ」
「一年くらい?でしたっけ。俺が2ヶ月くらい長い出張行って帰ってきたら、桜さん引退してたなぁ」
「あー。うん…。ちょっと忙しくなっちゃって、それでやめたのよ」
「でも、サービス終了日に少し話しましたよね?」
「そうそう、七海ちゃんとは連絡とってて、それで最終日だよって言われて少しだけ入ったの」
「それでみんなで盛り上がって、その後、桜さんが初めてのオフ会参加と」
「――で、今に至る。まさか、あのスーパー俺様キャラのアオイに酔っ払って面倒見てもらう日が来るとか思わなかったけど」
「ははっ。ゲーム中はなんか役割演じてましたからね」

 とろとろとした和やかな時間が楽しい。
 いつの間にか、葵の肩に頭をもたせ掛けるようにして暖を取っている自分に桜は気がついた。
 あの失態以降、葵と会うと、まずは妙な緊迫感があるのだが、最終的には心が楽な形で毎度終わる。何でこんなに気を許してるんだろう?私、と桜は思ったが、この時間がもどかしいほどに愛おしい。暖かくて離れたくない。自分が葵に甘えすぎている自覚はあった。普段の桜ならそこまで絶対、他人に踏み込ませないような領域まで踏み込ませてしまっている。

「桜さん? 眠いならベッドに行って下さい。風邪引く」
「んー」
「…んー、じゃないですよ」
「……」
「――酔ってても抱きますよ」
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