あの日まではただの可愛い女《ひと》。
――つらいよ。
「ん。どうしたの?桜さん」
ついつい身じろぎしてしまったんだろう。眠むそうな声で葵が、桜を腕に囲い込む。
暖かい感触だけでなく、胸に来る安心感が桜を余計不安にさせた。
「な、なんでもないよ」
「どっか痛いんですか?」
「ううん。ちょっと疲れすぎちゃって…」
「ごめん、無理させちゃったね。なんか我慢効かなくて」
「ん。ダイジョブ」
少しだけ赤くなりながら桜は首を振って葵の胸に顔を埋めるようにして言った。『好き』を自覚してしまったら、とたんになんだか、相手の気持ちはわからないが好きな相手に触れられていると思って、むずかゆくなる。葵はさわさわと桜の曲線を優しく撫でている。もうその感触だけで、桜は本当のことを言ってしまいたくなる。でもそれはだめだと、自分に言い聞かせて言葉をつむいだ。
「あ。葵…。あ、のね。ちょっと仕事、忙しくなるからっ、あんまり会えなくなる…」
ぐりぐりと顔をさらに埋めた。
「ええー。ノー残業デーも?」
「水曜日も家帰って色々処理しないといけないんだ」
「もうすぐクリスマスなのに、大変だね」
「う、うん。ご、めんね?」
ちょっと旧正月までのアジアが動いてる間にまとめなきゃいけないんだとか、嘘ではないけど本当でもないことを言い募った。桜は葵の胸に顔を埋めていたから、葵の表情はわからなかったが、葵はすごく醒めた目で、桜の体や髪を撫でていた。
なんだか、間が持たない気がして、桜はふと、思いついて、葵に聞いた。
「ね。葵、オンラインゲームのサービス終了した日に話したこと覚えている?」
「え?」
「あの日二人きりでちょこっと話したじゃない?」
そういえばなんとなく、二人で話したことは覚えているが、結構他愛もない話だったような気がするなと、葵は思った。
「あんまり覚えてない?」
「うーん。すごく久々に会えたねとか、七海に今日が最後の日って聞いて桜さんが久々にインしたんだって言ってましたよね。そういえば、すごく変わった場所で二人で話したよね」
「そうそう。首都の王城のバルコニーで普通そんなところに入れるわけがないのに、なんとなく落ちてるランダムテレポポイント踏んだら、そこに飛んだんだよね」
「俺たち二人しか結局飛ばされなかったから、かなりレアなポイントと思いますよ」
テレポポイントというのはDDOで、ある場所に瞬時にいける扉のようなもので、最終日に運営側がいろんな場所にランダムで飛ぶという仕掛けを作っていたものだ。
たまたま同時にゲートに入ったせいか、二人一緒の場所に飛ばされた。
「あれ面白かったですよね。メンバーによっては軽装備でとんでもないダンジョンの奥地にとばされて、ヒーヒー言って帰ってきた人もいましたよね」
そうやって昔のなんでもない頃の二人の話をしながら、葵は眠りに落ちた。
桜もまぶたを閉じて、葵の体に身を任せていたが、内心、『そうか。葵にとったらあのときのことはたいしたことじゃなかったんだな』と、少し胸に重いものを感じて、しばらく眠れなかった。
――やっぱり。葵への気持ちは何とか押し込めなくちゃ。
あの日のことを覚えているのは自分だけだ。
葵はあの時、桜に言ったことを覚えていない…ということは、本当に気軽に、特に責任もなく、あの言葉を桜にくれただけだったんだと。ただのゲームでのつきあいだもんね。葵を束縛したり、気持ちを押し付けてしまったり、醜いことをしでかす前に、この気持ちは、なしにしなくちゃ…と、そう思った。
――桜さんが、本当によそよそしい。
翌朝、桜の部屋に桜を送ってから、自分の部屋に戻って仕事に行く支度をしながら葵は思った。夕べは日曜だというのに買い物帰りの桜を捕まえて、部屋に連れ込んで確かに荒っぽくむさぼったのは確かだ。志岐の件があったあとの週末だったからどうしても会いたかった。土曜は用事があるというので何とか日曜に約束をして強引に連れ帰ったに近かった。葵自身も一連の志岐の件で少しストレスがたまっていたのもあった。
ただ、こちらの切羽詰った感じにも、桜なりに応えてくれたという感触だった。
そのあと、なぜか、仕事が忙しくなるから会えないと言い出して、DDOでの最後の日の話をしてから、さらに気配が硬くなった。
その様子に、慎重にしないと、桜は葵の手からスルリと逃げ出すだろうと思った。
仕事が忙しいって言い出すのは、まぁ想定の範囲だったが…、ただその割には桜の空気が重いというか、妙な決意が固まってる感じがするような態度だった。
―― DDOの最終日に俺はなにを言ったんだろう?
葵が読めないのはそこの部分だった。
ごくごく当たり前の会話しかしなかったはずだ。でも、桜にとってはとても大事なことを言ったようだ。あの日の話を葵が余り明確に覚えてないことがわかった途端に桜の体が硬くなったからだ。
チャット上の会話じゃなくて、ゲームの中のキャラクター同士での会話なのでログは残っていないから、完全に自分の記憶を掘り起こすしかない。
葵にしては珍しく、次に打つ手がすぐに浮かばず、考え込むしかなかった。
とりあえず、『あんまり会えない』は『まったく会えない』ではないことだから、どうにか桜と接する方法を投げかけようと、葵は思って出社した。
「ん。どうしたの?桜さん」
ついつい身じろぎしてしまったんだろう。眠むそうな声で葵が、桜を腕に囲い込む。
暖かい感触だけでなく、胸に来る安心感が桜を余計不安にさせた。
「な、なんでもないよ」
「どっか痛いんですか?」
「ううん。ちょっと疲れすぎちゃって…」
「ごめん、無理させちゃったね。なんか我慢効かなくて」
「ん。ダイジョブ」
少しだけ赤くなりながら桜は首を振って葵の胸に顔を埋めるようにして言った。『好き』を自覚してしまったら、とたんになんだか、相手の気持ちはわからないが好きな相手に触れられていると思って、むずかゆくなる。葵はさわさわと桜の曲線を優しく撫でている。もうその感触だけで、桜は本当のことを言ってしまいたくなる。でもそれはだめだと、自分に言い聞かせて言葉をつむいだ。
「あ。葵…。あ、のね。ちょっと仕事、忙しくなるからっ、あんまり会えなくなる…」
ぐりぐりと顔をさらに埋めた。
「ええー。ノー残業デーも?」
「水曜日も家帰って色々処理しないといけないんだ」
「もうすぐクリスマスなのに、大変だね」
「う、うん。ご、めんね?」
ちょっと旧正月までのアジアが動いてる間にまとめなきゃいけないんだとか、嘘ではないけど本当でもないことを言い募った。桜は葵の胸に顔を埋めていたから、葵の表情はわからなかったが、葵はすごく醒めた目で、桜の体や髪を撫でていた。
なんだか、間が持たない気がして、桜はふと、思いついて、葵に聞いた。
「ね。葵、オンラインゲームのサービス終了した日に話したこと覚えている?」
「え?」
「あの日二人きりでちょこっと話したじゃない?」
そういえばなんとなく、二人で話したことは覚えているが、結構他愛もない話だったような気がするなと、葵は思った。
「あんまり覚えてない?」
「うーん。すごく久々に会えたねとか、七海に今日が最後の日って聞いて桜さんが久々にインしたんだって言ってましたよね。そういえば、すごく変わった場所で二人で話したよね」
「そうそう。首都の王城のバルコニーで普通そんなところに入れるわけがないのに、なんとなく落ちてるランダムテレポポイント踏んだら、そこに飛んだんだよね」
「俺たち二人しか結局飛ばされなかったから、かなりレアなポイントと思いますよ」
テレポポイントというのはDDOで、ある場所に瞬時にいける扉のようなもので、最終日に運営側がいろんな場所にランダムで飛ぶという仕掛けを作っていたものだ。
たまたま同時にゲートに入ったせいか、二人一緒の場所に飛ばされた。
「あれ面白かったですよね。メンバーによっては軽装備でとんでもないダンジョンの奥地にとばされて、ヒーヒー言って帰ってきた人もいましたよね」
そうやって昔のなんでもない頃の二人の話をしながら、葵は眠りに落ちた。
桜もまぶたを閉じて、葵の体に身を任せていたが、内心、『そうか。葵にとったらあのときのことはたいしたことじゃなかったんだな』と、少し胸に重いものを感じて、しばらく眠れなかった。
――やっぱり。葵への気持ちは何とか押し込めなくちゃ。
あの日のことを覚えているのは自分だけだ。
葵はあの時、桜に言ったことを覚えていない…ということは、本当に気軽に、特に責任もなく、あの言葉を桜にくれただけだったんだと。ただのゲームでのつきあいだもんね。葵を束縛したり、気持ちを押し付けてしまったり、醜いことをしでかす前に、この気持ちは、なしにしなくちゃ…と、そう思った。
――桜さんが、本当によそよそしい。
翌朝、桜の部屋に桜を送ってから、自分の部屋に戻って仕事に行く支度をしながら葵は思った。夕べは日曜だというのに買い物帰りの桜を捕まえて、部屋に連れ込んで確かに荒っぽくむさぼったのは確かだ。志岐の件があったあとの週末だったからどうしても会いたかった。土曜は用事があるというので何とか日曜に約束をして強引に連れ帰ったに近かった。葵自身も一連の志岐の件で少しストレスがたまっていたのもあった。
ただ、こちらの切羽詰った感じにも、桜なりに応えてくれたという感触だった。
そのあと、なぜか、仕事が忙しくなるから会えないと言い出して、DDOでの最後の日の話をしてから、さらに気配が硬くなった。
その様子に、慎重にしないと、桜は葵の手からスルリと逃げ出すだろうと思った。
仕事が忙しいって言い出すのは、まぁ想定の範囲だったが…、ただその割には桜の空気が重いというか、妙な決意が固まってる感じがするような態度だった。
―― DDOの最終日に俺はなにを言ったんだろう?
葵が読めないのはそこの部分だった。
ごくごく当たり前の会話しかしなかったはずだ。でも、桜にとってはとても大事なことを言ったようだ。あの日の話を葵が余り明確に覚えてないことがわかった途端に桜の体が硬くなったからだ。
チャット上の会話じゃなくて、ゲームの中のキャラクター同士での会話なのでログは残っていないから、完全に自分の記憶を掘り起こすしかない。
葵にしては珍しく、次に打つ手がすぐに浮かばず、考え込むしかなかった。
とりあえず、『あんまり会えない』は『まったく会えない』ではないことだから、どうにか桜と接する方法を投げかけようと、葵は思って出社した。