あの日まではただの可愛い女《ひと》。
自分らしいって難しいこと?
 会社に出社して、桜は打ち込むように仕事をしていた。
 仕事なんて探せばいくらでも発生するのが、桜の担当しているパートの特徴である。掘れば掘るほど、いくらでも仕事は発生する。
 葵に『仕事が忙しくなるから』と言ってから、昼休みも満足に取れないような仕事ぶりに自分を追い込んだ。
 松本や坂野も心配して、いろいろ手伝ってはくれているがそれも限界があるし、彼らが出来ない業務は山ほどあった。

「桜さん、隆さんがお呼びです」

 そう、松本に言われて、時間を確認する。
 特に隆に何か言われるような案件はなかったはずだが?とおもいつつ、局長室に向かった。

「隆さんお呼びですか?」

 窓際に背中を向けて、隆が立っていた。

「ん、来たか」

 しばらく振り返らない隆にちょっと怪訝な気持ちになる。
 隆は、背中を向けたまま静かに続けた。

「桜、昨夜、社長に呼び出された。役員に選出された」
「――!」
「正式には4月の人事だが、取締役会の承認は取れてる。そのつもりで準備に入ってくれるか?」

 桜はなんて言っていいか、わからなかった。
 隆は前を向いて揺るがずに進んでいるのに、自分のこの体たらくは何だろうと思いつつも、うれしかった。隆を経営陣に送り込むためにこの10年間、戦ってきたといってもいい。やっとその目標に手が届いた瞬間だった。

「おめでとうございます。組織改変を考えないといけませんね」
「ああ。桜にはこれからさらに働いてもらうことになると思うが、大丈夫か?」
「もちろんです。局長の人事はまだそのままですか?」
「そうだな。しばらくは、俺が兼任だな。ぶっちゃけそこは焦りたくない。何かあったら当然お前に相談する」
「わかりました」

 そう言って退出しようとしたときに、隆が桜の顔を見やった。

「桜、何かあったのか?」
「は? イエ。特に普通ですけど?」
「そうか、少し元気がない気がしたから、なんかあるなら早めに相談しにこいよ」
「ありがとうございます」

 桜は、失礼しますとだけ言って、退出した。

「5年前のときと同じ表情《かお》してたんだが…」

 隆は閉まった扉に向かってつぶやいた。



 他の人たちは順調に自分をコントロールして、前に進んで行ってる気がするのに、自分だけなぜこんなにもちゃんとできないんだろう?

 そう桜は、埒もないことを考えてしまった。
 理性ではそんなわけがないことはわかっているが、自分だけが取り残されてしまっているような気持ちが、どうしてもしてしまう。
 そんなこと考えること自体がバカだし、醜いことだということもわかっている。
 でも、その後ろ向きの思考を止めることができない。

 隆の役員就任にあわせて組織の形を変化に対応できるように整えようと、素案を作る。それほど急ぎでもないが、何でもいいから自分を忙しくしてしまいたかった。
 忙しくしてないと、葵のことをどうしても考えてしまう。

 ことん。

 かすかな音がして顔を上げた。
 松本が桜の机に、カフェオレの缶を置いた音だった。

「桜さん、ちょっと息抜きしませんか?」

 にっこりと松本が笑う。
 何かの相談事かな?と、そう思って桜は『いいですね。休憩室行きましょうか』といって缶を手にとって立ち上がった。



「松本さん、どうしたんですか?」

 松本はコーヒーの缶をプシっと開けて一口飲んだ。

「隆さんのお話なんだったんですか?」
「あー。役員に決まったそうです」
「それは、やっとですね。…それだけでしたか?」

 うーん。なんもなかったよな、と桜は思って首を振った。

「なんかあったら相談しに来いとはいわれたけど、それはいつものことですし…」

 首をかしげる桜に、松本は苦笑した。

「桜ちゃん」

 昔の上司部下ではなかったときの呼称に、桜は顔を上げた。

「何か悩んでるよね? ボクに何かできることはない?」

 志岐とのことがあって、戦おうと決めて会社に出社したときのことを桜は思い出した。あの時もふらふらと社内を歩いてたら松本に呼び止められて同じコトを言われたっけ? なんだか最近5年前をなぞるような出来事に遭遇して、桜は苦笑する。ただ、あの時と違うのは、松本に頼むべきことがないということだ。自分自身の手で答えを出して、行動しないといけない。

「できることがないなら、愚痴くらい聞くよ?」

 葵に対しての愛しい気持ちが表面にあふれそうになって、瞳が潤む。誰かに言えば楽になるんだろうか?

「なんていうか――わからないんです」

 素直に今の気持ちがつるりと唇から漏れる。

「だから、相談したいとか、したくないとかじゃなくて、出来ないんですよ」
「志岐さんのこと、もしつらいならボクがやろうか?」
「――それは、大丈夫です。もうたぶんお互い納得はしたと思いますから」
「でも、必要のないレベルの仕事まで手を出してるよね?」
「……。志岐さんのことではなくて、ちょっといろいろ――個人的なことで悩んじゃってるだけなんです…。ご心配おかけしてすいません」

 松本にまで心配されるとは情けない。そう思って桜は小さく縮こまってしまった。

「個人的なことって?」

 珍しく踏み込んでくる松本に、少し戸惑いを隠せない。ただ少し、桜も踏み込んでみることにした。

「松本さんは――奥様とは、恋愛結婚なんですよね?」
「そうそう。ボクが異業種交流で、商社に2年出向してたときに出会ったんだ」

 カエデでは他の企業との人事交流を図っていて、松本は20代に商社に2年ほど出向させられていたことを桜は思い出した。

「マーケティング部門だったんだけど、ボクが洋服好きっていうことでアパレル部門の仕事を結構担当してたんだ。奥さんはそこのブランドのデザイナーの一人で、すごいぶつかったなぁ」

 とても楽しそうに松本が思い出すようにいった。

「付き合ってからも、結構大変で、コレクションの前はまったく個人的な話はできないし、いろいろ悩んでても彼女は相談してこないしで、すごくこっちははらはらしましたね」
「悩みって、仕事上の悩みですよね?」

 デザイナーの相談にいくらなんでも松本がのれるとかは思えなかった。

「まぁ大半がそうなんだけど、人に話すと楽になるよね? それに頼って欲しかったし」
「そ…ういうものなんですか?」
「もちろん。好きな人には我儘言ってもらいたいですよ。そういうことされると、気持ちを許してきているな、特別だなって思えるからうれしいよ」

 むむむ。そういうものなのか? でも松本は結構何でも人の相談にのりやすいタイプの人だしなぁ~、とか桜は眉間に皺を寄せた。

「でも、奥様に頼り過ぎられたり、会えなかったりしたらすごくイヤになりませんか?」
「うーん。会えないとつらいけど、仕事は彼女を構成する大事な要素のひとつですしね。彼女の情熱や想いみたいなもの含めて欲しいと思ったし。――まぁ確かに、切れて彼女を縛りつけたいって思ったことはありますよ?」

 松本が切れたところとか想像できない桜は目を少し丸くした。

「それが恋愛って言うもんですよ。色々悩みますよ?でもそれが苦しくてうれしい」
「マ…マゾっぽいですね」

 ぷっと松本が思わず笑う。

「桜ちゃん、一度その人とちゃんと話しをした方がいいよ」

 いえ、私のことでなく松本さんの話を聞いてただけなんですが…と桜はしどろもどろに言うが、松本は柔らかく笑って、そろそろ仕事に戻りましょうか、お時間取らせてすいませんでした、と言って上司部下の口調にまた戻った。
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