あの日まではただの可愛い女《ひと》。
 ―― 一度だけでいいからって、どういう意味だろう?

 そう、桜はやはり残業しながら、ふと気が付くと考え込んでしまった。インフルエンザから復帰してみたら、仕事は当然恐ろしいほど溜まっているし、坂野は相変わらず仕事が甘くて、そのフォローはしないといけないし…と言う状況で、自分の担当している仕事はどうしても、残業をして処理する羽目に陥っていた。

 一度だけでいいから…その意味を落ち着いて考えて、それから連絡を取ろう、取らねばならないと思ってはいたが、とてもそんな風な余裕がなかった。
 ただ、葵には看病してくれてありがとうという趣旨と、帰省土産を渡したいけど、ちょっと仕事が忙しくて、落ち着いたら連絡すると言う感じでも良いか?というメールを打った。返信は『いつでも、落ち着いてからでいいよ。無理しないで』と、葵の出張の予定を書かれて返って来た。


 ―― 一度だけ……。

 その意味を考えようとするとピタリと、キーボードをたたく手が止まってしまう。
 ただ、考えないとまた、自分が流されて愚かしいことをしてしまうのは、桜自身が良くわかっていた。

 ――ちゃんと整理してみようよ、私。

 そう、考えてテキストソフトを呼び出す。
 プレゼンチャートを作ったりする前に、企画の方向性を決めるときにまず、フラットな質問を自分で答えていくのが、桜のやり方の一つである。本来は手書きで作っていくのが常だが、残業中の合間ということと、流石に誰かに見られたら精神的に死ねる…と思ったのでテキストで書くことにした。

 ふと、そういうやり方で自分の気持ちを整理しようとする自分に自嘲の笑みが漏れた。

 ――結局仕事ばっかなんだなぁ、私。

 でも仕事で培ったアプローチ方法でしか、自分のことが整理できないから仕方がない。そもそも、どこかいつも第三者的な視点があって、誰かを好きになって感情をコントロールできないってことを経験したことがなかった。ぶっちゃけ可愛げがないって私みたいなことを言うのねと、桜は自嘲しながら最初の質問を打ち込んだ。


『自分らしく生きるってなに?』

 ・誰にも迷惑をかけないこと。
 ・自分のことをちゃんとコントロールして、わがまま言ったりしない。
 ・コントロールできないって醜くていやだ。
 →でもうまく出来ないなぁ。なんでだろ?
 葵とこうなってから、だんだんコントロールできなくてとてもつらい。
 →つらいなら、なんで葵とよく会うの?
  会うといっつも楽しくて、ついつい会ってたら、いつのまにかコントロールが効かない自分に気がついた。こんなことは初めてすぎてどうしていいかわからない。

 
 葵にとって私ってなんだろう?
 そう思って次の質問を打つ。


『葵との関係ってなに?』

 ・パーツが好き同士。
 ・友達…たまにセックスもする。
 ・結構親密な友達?
 →この前わざわざ看病に来てくれたし…。酔っ払った私を介抱してくれたこともある。
 →でも、ただの優しさなのかも。
 ・だから、恋人ではない。


 最後の行を打って、思わず、どんよりとしてしまう。思ってたより気持ちが重くなる自分の感情に戸惑いを隠せない。思いあうって言うことは一方通行ではないから…。


『恋人ってなんだろう?』

 ・一緒にごはん食べたり他愛のないことを共有できる間柄じゃないかな。
 →葵とやってることとかわらない気がするけど、友達の間柄とどう違うんだろう?
 →お互いに気持ちがあるって言うこと……なのかなぁ。
 →でも志岐さんは、利用しあえる間柄みたいなこと言ってたから、そうじゃないのかも。
 →そんな関係、私はいや。


 うーん。とまた桜は頭を抱えた。
 でもそうなると『気持ち』って言うことがキーワードになる気がする。自分の気持ちは葵にあるから。


『葵の気持ちは私にあると思う?』

 ・親切だけど、大事にしてくれてるけど、わからない。
 →好意という感情はあるんだろうけど、それ以上の気持ちがわからない。
 →やっぱり友達の延長線でしかないのかなぁ。なんとなく、今一歩踏み込んできたり、こういう関係続けているのに、何も言われたり束縛されたりしないって、そういうことのような気がする。
 →男の人って、付き合ってたりする女子には自分を一番だって思って欲しいって、よく聞くし。仕事を優先してる私に対して葵は何もいったことがない。
 →そうなるとやっぱり、葵は私に恋愛感情を持ってないと思う。
 →私は葵の気持ちを確かめたいんだろうか?


『私の好きはどういう好き?』

 ・男の人として好き…だと、あの日おもった。
 ・気持ちを知って欲しいような気がするけど、知られたら二度と会ってくれない気もする。
 ・それでも告白したらどうなる?
 →パーツ好き同士なんだから、ありえないよって言われる。
 →そしたら私はどうする?
 →すがりつく? それとも、迷惑かけてごめんね? それとも、ごめんごめん。冗談だった。少し言ってみただけってごまかす?
 →やっぱり、告白なんて出来ない。年上だし。可愛くもなんともないし。


 ただ、こんな風に自問自答するって言うことは、コントロールが出来てないということだ。コントロールするということは自制とセットである。


『とすると――好きって言う気持ちは抑えられる?』

 ・わからない。
 ・でも、好きって言うことをなかったことに出来ない。
 →そうなると結論は、好きって言うのは抑えられない。
 →抑えれないなら、会うのをやめられる?
 →やめられない…。やめたくない。


 ――そうだね。もうなかったことに出来ない。

 ふと、桜は自分の中にある気持ちをなしにすることなんて出来ないことに気が付く。
 この数週間、この気持ちをなかったことにしようと、葵にずっと会わないようにしてきた自分はなんだったのかと、自嘲の笑みを漏らす。
 そして更なる問いかけを打つ。


『"一度だけ"なら、私はどうする?』

 ・


 手が止まって考え込んでしまう。あのメモの『一度だけでいいから』が桜にとっては意味を図りかねて、自分がどうするべきなのか、どうしたいのかということが思い浮かびすぎてまとまらない。桜はしばらく画面をにらんだ。



「あれ? 桜まだ残業なのか?」

 ピクリとパソコンから顔を上げると、志岐がコート姿で立っていた。

「志岐さん、直帰じゃなかったんですか?」

 確か夕方から外出の予定だったから、直帰だと思っていたのに。

「そのつもりだったんだが、坂野君のメールで気になるところがあって、資料を調べに戻ってきた」
「え!?」

 桜もメーラーを見て、坂野のメールを探す。中身はトラブルまで至っていないが、放っておけば誤解を呼んでトラブルになりかねないという類の内容であった。

「ぁぁああああ。あのばかっ!」

 苦笑交じりに眺めている志岐を尻目に、桜はメールを読み解いて回答方法の提示を志岐に対してした後に、関係者一同に状況の整理と指示メールを小一時間後に送った。
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