あの日まではただの可愛い女《ひと》。
「すいませんでした」
結局、処理が終わるまで付き合った志岐となし崩し的に食事をする羽目に陥り、恵比寿近辺のバーで二人でビールを飲むことになった。
「久しぶりに叫び声をあげる桜を見たよ。まぁ、坂野君もうっかりなところがあるからね」
そう、苦笑交じりに志岐がビールを傾けた。
「明日、本人には、今回の件説明しておきます」
「あちらには僕が説明しておくよ」
お願いします、と桜は頭を下げた。もし桜本人が、先方に謝ったとしても火種は少し大きくなっていたはずだ。なぜなら、安田常務の管掌部門との仕事だから、桜本人が出て行けば、結構な確率で嫌味やらあてこすりやらは出てくる。
業務に支障は出なくても、時間も精神的にも磨耗するのは目に見えている。毎度ながら思うが、そこまで隆を敵視する意味合いが理解できない。派閥っていうことはわかるが、桜はフラットに仕事をしているつもりだし、隆の存在をちらつかせたこともない。それでもこういう業務とはあまり関係ない問題に気を使わされた。
「僕をうまく使えるとこういうところが楽だなと思わないか?」
思考を読んだかのように、志岐がビールを飲み干しながらニコリと太い笑みで桜を見やる。それを見て、桜もふっと笑ってしまう。
「志岐さんは――メフィスト・フェレスのような人ですね」
「ふ。じゃあ、桜はファウストか。魅力的なファウストだ。メフィストのほうが騙されてしまう」
呆れたような笑いを桜は浮かべる。ファウストを誘惑して、地獄へ魂を突き落とす悪魔に見立てたというのに、この返しには苦笑を禁じえない。
「本当に志岐さん…しつこいですよ」
笑い混じりであるが、ぽろりと一言だけ漏らしてしまった。流石に気まずいと思って、それをごまかすように桜はメニューを手に取った。撤回する気はないが、それでも面と向かって目を見ることは出来なかった。
「ふ。本音が出たな。僕が粘り強いのは君も承知の上だと思ったけど?」
「そうですね…。はぁ…。次はなにを飲まれますか?」
「桜のお勧めで」
ため息までついて見せたのに、その返答に、メニューを繰る手が思わず止まってしまう。
「桜の酒の趣味に合わせるよ」
――酒の趣味が合わない男とはお付き合いできません。
そういう趣旨のことを言って、志岐の告白を断ったのはほんの数週間前のことだった。その後も時折、桜ににじり寄ってくる志岐をどう取り扱っていいのかがわからず、かわしまくってはいた。志岐を思わず、見つめ返すと目の奥に思いもよらず真摯な光が灯っていた。
「志岐さん…」
「君が、僕の告白を業務上のものに近いと思っていることは承知している」
――だって、あなたは隆さんをずっと追っかけ続けていたでしょ?
そう視線だけで、桜は志岐に伝える。
「隆さんのことは確かに、僕も処理できない問題だとおもう。あんなに憧れて嫉妬した存在はないから…。だが…」
「志岐さんはお好きなお酒は何でしたっけ?」
「――」
「先日は山崎でハイボールを結構飲まれてましたね」
さえぎるようにそう言って、桜はハイボールと自分の分のマティーニを注文する。
「それが君の返事か?」
「そう言われてしまえばそうですね。私はどんな人でも、その人の好きなお酒を飲んでもらって、楽しく過ごせる方がうれしいんですよ」
桜の真意がわからず、志岐は一瞬黙った。
「志岐さん。私はやっぱり人の気持ちが判らないところがあって、本当に失礼なことをしました」
「それは……あの夜のこと?」
「あの夜も――。そして今回の志岐さんへの返答をプレゼンでごまかしたことも」
「――!」
「あの時は自分の気持ちにまったく自信がなかったし、わからなくて…。でもどうにかして、志岐さんと一緒にやっていける道を探したかったんです」
そう桜は、思わず下を向いて一瞬黙る。
「どんな人にも美味しく思えるお酒を飲んでほしい。私の趣味関係なく。で、もう一つ願えるなら、楽しく一緒にお酒を飲める関係でいられたら言うことはないと思うんです」
「趣味が合わなくても?」
「そうですね。趣味が合わないからこそ、色んなことを解決できたり、新しいことが出来るんじゃないでしょうか。一緒にやっていく同志として、お互いの趣味や美味しいものを認め合いながら……」
そこに、お代わりのハイボールとマティーニがやってきたので二人は一瞬黙った。
「同志――」
「仕事上は私たち、うまくやれると言うか、5年前の業務もそうでしたけど」
「気持ちはどうやっても難しい?」
「私――最近気が付いたんですけど。葵…藤間君のことがどうしようもなく好きなんです。たぶん釣り合いみたいなこと考えれば、おかしいんでしょうけど…」
「だから困難な道を行くと?」
「結果的には、カエデの鈴木桜としてはそうなのかもですね。ただ、私はカエデの鈴木桜だけでなく、それを含めてが私って言う人間だから……。私自体って言うことで言えば、困難だろうがなんだろうが、彼じゃないとダメなんです」
「桜――」
少しだけマティーニの芳香を嗅いで唇を濡らして、桜は寂しげに微笑んだ。
「志岐さんのことはお仕事する上では、非常に信頼していますよ? でも、好意を条件でコントロールしようとするのは違うと思いますし。私自身がそういうのはだめです。無理なんです。きっといろんなものが歪んで悲鳴をあげちゃいます」
あの5年前のように――。だから、志岐さんが一緒にやっていきたいって思ってもらえるならやっていきたいし、だめならだめでいたし方がない。私は一緒にやっていければと思うけど、人の気持ちを強要することは出来ません…。そう桜は言い募った。
「もし僕がいやだといったら、君は今回の件では、やらなくてもいい苦労するだろうし、評価されずに、出世も大分遅れるよ? 隆さんが今回ほど君が評価されることを望んでいてもかい?」
確かに、隆からは志岐の業務を成功させることに集中しろということは言われてはいた。理由も明確だ。隆以外――特に安田派閥の評価を得ることだ。
「そうですね。隆さんは笑って許してくれるけど、きっと私を赦さないでしょうね。だからと言って気持ちは偽れないですし、仕事は仕事で評価云々関係なく完遂しますよ。それに――、この件については気持ちが自分でもどうしようもないくらい定まっちゃってるんです」
桜のきっぱりした顔を見て志岐は、ハイボールを手に取る。
「もう君の気持ちに入り込む隙はないようだな」
「すいません――」
ふっと笑う志岐に桜は頭を下げる。
「もし、5年前、僕が君に素直に告白していたら状況は違ったのかもな」
それについて何も答えられない桜に、志岐は晴れやかな笑みを返す。
「大丈夫。君の仕事ぶりのすばらしさは僕が保障する」
「志岐さん…」
その目の色を見て、彼の返答がわかったし、これから一緒にやっていけると桜は思えた。
志岐がハイボールのグラスを掲げたので、桜も自分のグラスを掲げる。
ちりん…と涼やかな音が鳴って、二人はグラスを空けた。
結局、処理が終わるまで付き合った志岐となし崩し的に食事をする羽目に陥り、恵比寿近辺のバーで二人でビールを飲むことになった。
「久しぶりに叫び声をあげる桜を見たよ。まぁ、坂野君もうっかりなところがあるからね」
そう、苦笑交じりに志岐がビールを傾けた。
「明日、本人には、今回の件説明しておきます」
「あちらには僕が説明しておくよ」
お願いします、と桜は頭を下げた。もし桜本人が、先方に謝ったとしても火種は少し大きくなっていたはずだ。なぜなら、安田常務の管掌部門との仕事だから、桜本人が出て行けば、結構な確率で嫌味やらあてこすりやらは出てくる。
業務に支障は出なくても、時間も精神的にも磨耗するのは目に見えている。毎度ながら思うが、そこまで隆を敵視する意味合いが理解できない。派閥っていうことはわかるが、桜はフラットに仕事をしているつもりだし、隆の存在をちらつかせたこともない。それでもこういう業務とはあまり関係ない問題に気を使わされた。
「僕をうまく使えるとこういうところが楽だなと思わないか?」
思考を読んだかのように、志岐がビールを飲み干しながらニコリと太い笑みで桜を見やる。それを見て、桜もふっと笑ってしまう。
「志岐さんは――メフィスト・フェレスのような人ですね」
「ふ。じゃあ、桜はファウストか。魅力的なファウストだ。メフィストのほうが騙されてしまう」
呆れたような笑いを桜は浮かべる。ファウストを誘惑して、地獄へ魂を突き落とす悪魔に見立てたというのに、この返しには苦笑を禁じえない。
「本当に志岐さん…しつこいですよ」
笑い混じりであるが、ぽろりと一言だけ漏らしてしまった。流石に気まずいと思って、それをごまかすように桜はメニューを手に取った。撤回する気はないが、それでも面と向かって目を見ることは出来なかった。
「ふ。本音が出たな。僕が粘り強いのは君も承知の上だと思ったけど?」
「そうですね…。はぁ…。次はなにを飲まれますか?」
「桜のお勧めで」
ため息までついて見せたのに、その返答に、メニューを繰る手が思わず止まってしまう。
「桜の酒の趣味に合わせるよ」
――酒の趣味が合わない男とはお付き合いできません。
そういう趣旨のことを言って、志岐の告白を断ったのはほんの数週間前のことだった。その後も時折、桜ににじり寄ってくる志岐をどう取り扱っていいのかがわからず、かわしまくってはいた。志岐を思わず、見つめ返すと目の奥に思いもよらず真摯な光が灯っていた。
「志岐さん…」
「君が、僕の告白を業務上のものに近いと思っていることは承知している」
――だって、あなたは隆さんをずっと追っかけ続けていたでしょ?
そう視線だけで、桜は志岐に伝える。
「隆さんのことは確かに、僕も処理できない問題だとおもう。あんなに憧れて嫉妬した存在はないから…。だが…」
「志岐さんはお好きなお酒は何でしたっけ?」
「――」
「先日は山崎でハイボールを結構飲まれてましたね」
さえぎるようにそう言って、桜はハイボールと自分の分のマティーニを注文する。
「それが君の返事か?」
「そう言われてしまえばそうですね。私はどんな人でも、その人の好きなお酒を飲んでもらって、楽しく過ごせる方がうれしいんですよ」
桜の真意がわからず、志岐は一瞬黙った。
「志岐さん。私はやっぱり人の気持ちが判らないところがあって、本当に失礼なことをしました」
「それは……あの夜のこと?」
「あの夜も――。そして今回の志岐さんへの返答をプレゼンでごまかしたことも」
「――!」
「あの時は自分の気持ちにまったく自信がなかったし、わからなくて…。でもどうにかして、志岐さんと一緒にやっていける道を探したかったんです」
そう桜は、思わず下を向いて一瞬黙る。
「どんな人にも美味しく思えるお酒を飲んでほしい。私の趣味関係なく。で、もう一つ願えるなら、楽しく一緒にお酒を飲める関係でいられたら言うことはないと思うんです」
「趣味が合わなくても?」
「そうですね。趣味が合わないからこそ、色んなことを解決できたり、新しいことが出来るんじゃないでしょうか。一緒にやっていく同志として、お互いの趣味や美味しいものを認め合いながら……」
そこに、お代わりのハイボールとマティーニがやってきたので二人は一瞬黙った。
「同志――」
「仕事上は私たち、うまくやれると言うか、5年前の業務もそうでしたけど」
「気持ちはどうやっても難しい?」
「私――最近気が付いたんですけど。葵…藤間君のことがどうしようもなく好きなんです。たぶん釣り合いみたいなこと考えれば、おかしいんでしょうけど…」
「だから困難な道を行くと?」
「結果的には、カエデの鈴木桜としてはそうなのかもですね。ただ、私はカエデの鈴木桜だけでなく、それを含めてが私って言う人間だから……。私自体って言うことで言えば、困難だろうがなんだろうが、彼じゃないとダメなんです」
「桜――」
少しだけマティーニの芳香を嗅いで唇を濡らして、桜は寂しげに微笑んだ。
「志岐さんのことはお仕事する上では、非常に信頼していますよ? でも、好意を条件でコントロールしようとするのは違うと思いますし。私自身がそういうのはだめです。無理なんです。きっといろんなものが歪んで悲鳴をあげちゃいます」
あの5年前のように――。だから、志岐さんが一緒にやっていきたいって思ってもらえるならやっていきたいし、だめならだめでいたし方がない。私は一緒にやっていければと思うけど、人の気持ちを強要することは出来ません…。そう桜は言い募った。
「もし僕がいやだといったら、君は今回の件では、やらなくてもいい苦労するだろうし、評価されずに、出世も大分遅れるよ? 隆さんが今回ほど君が評価されることを望んでいてもかい?」
確かに、隆からは志岐の業務を成功させることに集中しろということは言われてはいた。理由も明確だ。隆以外――特に安田派閥の評価を得ることだ。
「そうですね。隆さんは笑って許してくれるけど、きっと私を赦さないでしょうね。だからと言って気持ちは偽れないですし、仕事は仕事で評価云々関係なく完遂しますよ。それに――、この件については気持ちが自分でもどうしようもないくらい定まっちゃってるんです」
桜のきっぱりした顔を見て志岐は、ハイボールを手に取る。
「もう君の気持ちに入り込む隙はないようだな」
「すいません――」
ふっと笑う志岐に桜は頭を下げる。
「もし、5年前、僕が君に素直に告白していたら状況は違ったのかもな」
それについて何も答えられない桜に、志岐は晴れやかな笑みを返す。
「大丈夫。君の仕事ぶりのすばらしさは僕が保障する」
「志岐さん…」
その目の色を見て、彼の返答がわかったし、これから一緒にやっていけると桜は思えた。
志岐がハイボールのグラスを掲げたので、桜も自分のグラスを掲げる。
ちりん…と涼やかな音が鳴って、二人はグラスを空けた。