花蜜のまにまに
*

「ひかり、あんな男絶対やめた方がいいって!」

 美希は居酒屋の黒くてつやつやのテーブルに、白桃サワーのジョッキを乱暴に叩きつけて、声高にそう宣言した。
 ダイエットだとか言って、碌々おつまみも食べずに空っぽの胃にアルコールを流し込むからあっという間に酔っ払うのだ。

「ミキ、これ美味しいよ」

 ひかりはそれとなく、テーブルを挟んで反対の席に座っている美希の方に、物を食べるように促す為にクリームチーズ豆腐の皿を寄せた。美希はダイエット中と言っていたけれど、そしてそれは濃厚なクリームチーズの味がしたけれど、なんといっても『豆腐』なのだ。きっとカロリーは低いに違いない。ひかりはそんな風に、『豆腐』の事を半ば妄信的に、そして絶対的に信用していた。

 ひかりとふたりきりで飲んでいる時や、女友達で飲んでいる時、美希の酔っ払ったサインは何時もこの、幸祐の否定から始まるのだ。
 その件に関しては、ひかりと美希は何度離してもお互いの主張を繰り返すばかりで、もういい加減水掛け論だとわかりきっていたから、ひかりはそんな話は聞きたくなかった。だから美希におつまみを勧めるに徹する。やはり酔っ払っているのだろう。幸祐の悪い所を挙げ連ねる事にヒートアップするあまり、美希もカロリー等気にせず、薄切りのフランスパンのトーストにクリームチーズをたっぷりと乗せて、それを頬張った。
「あ、これ美味しい」
「でしょ」
 一瞬だけ、美希の表情が緩んだのでひかりも微笑んだのだが、美希はすぐに思い出した様子で厳しい表情を作った。

「顔がいいだけの男とバンドマンだけはやめときなさいってアレほど、」
「美希ちゃん、バンドマンに何か恨みでもあるの?」
「バンドマンと恋する女は不幸になるって相場が決まっているの!」

 それはいったい何処の相場なのだろう。
 出処不明の定説に、ひかりはくすくすと小さく笑った。
 幸祐は『バンドマン』ではないけれど『顔が良いだけの男』だ。美希はそれが何よりも気に入らないらしく、幸祐のいない所では彼の事をそう呼ぶ。

 別にひかりがイケメンと一緒に居る事に嫉妬している訳ではない。美希にはきちんと彼氏が居て、それは幸祐程ではないけれど、顔もよかったし勉強もできて、サークルの集まりにもきちんと顔を出す。要するに『顔が良いだけ』では無い男性だ。そういう男性の『彼女』であれば良いのだ、と美希は何時も力説する。

 美希の彼氏は、ひかりと美希が所属するサークル苺一会の今の部長で、一回生上の先輩だ。
 ひかりが美希と出会ったのは苺一会の新歓の時だった。一期一会で出会ったのはそれだけじゃない、今ひかりの周りにいる友達は殆ど苺一会で出会った子ばかりだし、――幸祐とも、出会ったのは苺一会だった。
 美希の彼氏である好井にはひかりも世話になっているし、同じ男の、しかも面倒見の良い好井に言わせても、幸祐は「あいつはなー…」と苦笑して言葉を濁されるような問題児だから、ひかりには美希に言い返す言葉も無い。

「でも、優しいんだよ」
 もう使い古した苦しいフォローを口にする。
「優しい男は、女の子をペットなんて呼ばないよ」
 何時もどおり一刀両断されると、もう返す言葉も無い。幸祐はそんな男だった。


「あ、ごめん」
 傍らに置いていたスマートフォンが、初期設定から変えていない着信音を慣らして、ひかりは弾かれた様にそれを手に取る。
 着信メール、一件。
 メーラーアプリを開くと、【コウちゃん】とつけられたフォルダにメールが一件増えていた。それだけで、ひかりはどうしようもなく嬉しくなる。ひかりは幸祐の『猫』だけれど、もし耳や尻尾が生えていたら、きっと馬鹿犬といわれるくらいに激しくぶんぶんと振っていたに違いない。

「彼奴?」
 美希がいっそう不機嫌な顔になって聞いてくる。ひかりは曖昧に微笑んだだけで返事をしなかったけれど、それはイコール、肯定という事だ。
 メールを開くと、「今夜、待ってる」という短い一文だけが表示された。急いで「はい」というだけの、とても短いメールを返す。幸祐は長いメールも、だらだらとメールを続ける事も好きじゃない。そんなだから、このご時世にメッセンジャーアプリだって使っていなかった。

 メールはあっという間に送りおわって、ひかりは傍らに携帯を置き直す。
 「ごめんごめん」と軽く謝って会話に戻ろうとしたが、美希はそうせず、突然「ああっ」と大袈裟な嘆きの声をあげて机に突っ伏した。
 いつの間にか美希の飲んでいた白桃サワーのジョッキは空になっていたけれど、居酒屋の薄いサワーくらいでそんなに酔っ払うものだろうか、とひかりはぼんやりと考えていた。それでも、こんな大仰な動きをする美希は、確実に酔っ払っている。

「ひかりはちょっと不思議ちゃん入ってるけどこんなに可愛くて良い子なのに!」
 突っ伏したまま美希が上げる声が存外大きく響いたので、ひかりはどきりとして肩を震わせた。
 二人がいるのは半個室の居酒屋で、まだサラリーマンやOLが飲みにくるには少し早い時間だったから、店内にそう人は多く無いと知っているが、思わずひかりは辺りを見回した。
此方を覗きこんでくる客どころか、通りかかる店員すらいないと知って、少しほっとする。
「あたしが男だったら、絶対ほっとかないのに!」
「…ありがと」

 大袈裟だし大声だけれど、嬉しい。
 美希はちょっときつい所があるけれど、誰よりも友達想いだ。良い親友を持った、とひかりは何時も美希の事を誇らしく思う。
 ゆったりと優しく目を細めて手を伸ばし、美希のボブカットを指で梳く様に撫でる。指通りの良い髪は、丁寧にケアされている証拠だ。何度も手を往復させて、髪の感触を楽しんで撫でながら、湧き上がる優しい気持ちに後押しされて、なんとなく、「よしよし」と口にしていた。

「あたしが男だったら、ひかりの事彼女にするのに!ペットなんかじゃなくて、ちゃんとした彼女!」
 続けられた嘆きに、ひかりは困った顔をするしか出来なかった。
 美希がここまで言うのは、ひかりが幸祐の彼女にはなれないからだ。


 ひかりは幸祐の『ペット』なのだ。
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