ピエモンテの風に抱かれて
「……まさか彼女が私の名字を忘れるなんて思ってもみなかったわ。でも無事にリュウに会えたんですって。あなたにも色々迷惑をかけたわね、本当にありがとう」
片手にはいつものビール。バスローブ姿で寛ぐ飛鳥がホテルの窓辺に腰かけ、電話ごしに誰かと話している。相手はゆっくりとした落ち着いた口調で返していた。
< まあ結果良ければ全てよし、ってことで気にするなよ。それよりも、アスカが気にしていた真田君の悪い噂の半分は判明したよ >
飛鳥はフッと笑みを作ると軽く首を横に振る。
「んー、ジュリの明るさが戻った今では、そんなことはもうどうでもいいとは思うんだけど…、一応聞いておこうかな」
< ま、聞いておいて損はないって。まず第一に、真田君が女タラシって話には信憑性がない。プレイボーイの役作りでクラブに通っていたのが誤解を招いたらしい。不倫騒動にも巻き込まれてただろ? けど違う。背の高いイケメン俳優ってだけで真田君の名前が浮上したみたいだ >
ゴクッと飲んだビールで潤わせた飛鳥の喉から、安堵の声がもれる。
「やっぱり! ジュリから聞いていた話とは違いすぎると思ったわ」
< だだ仕事マジメというか、堅物というか…。とにかく変わった性格なんだとさ。
いつでも頭ン中は台詞や歌詞でいっぱいらしい。TV局でお偉方さんとすれ違ってもブツブツと台詞を唱えるばかりで、挨拶もロクにしない。礼儀知らずのレッテルを貼られたのはそれが原因みたいだ」
「うわ、そんなことしてるの? でもそれも分かるような気がするわ。リュウの昔の性格そのもの。ジュリが言ってた通りよ」
苦笑しながらも妙に納得している飛鳥の安心した声を聞きとげると、彼は龍に同情するかのように続けた。
< だろ? 芸能人の悪い噂なんて頭ごなしに信じちゃダメだ。真田君の場合、仕事量は増える一方で休日はほとんどない。この前も深夜ロケが長引いて、そのまま徹夜明けでラジオの収録に行ったとか >
「徹夜でそのまま仕事? ミュージカルも毎日やってるのに?」
< ああ。しかもその収録先のスタジオのエアコンがぶっ壊れてて最悪な状態だったらしい >
「この猛暑のさなかでそれはキツイわね…」
< でもどんな理由があるにせよ、この世界は常に品行方正に振る舞わなければ悪い噂なんてすぐに広まっちまう。特に日本は礼儀を重んじるとか、同調性、協調性、年功序列とかいったものに支配されてるよな >
それが日本の良いところでもあるが、個性が尊重される諸外国との決定的な違いだろう。
<彼は生粋の外国育ちてのが災いしてるのかも。そういったものが欠けてても仕方ない。そうは言っても郷に入れば郷に…って諺もあるくらいだし、難しい問題だと思うよ。ま、どんな噂も有名税と思うしかないってやつか >
一瞬でも龍の悪い噂を信じてしまった飛鳥は、馬鹿な私…、と心の中で唱えた。そして感心したように、
「さすがね。あなたもこの業界で仕事してるだけあるわ。あっ、そういえば……」
樹里が一番気にしているであろう龍の新たな恋人の存在を思い出して話を振った。
「…ね、例のキス事件の彼女の話はどこまで知ってる?」
彼は、そうだ、と言わんばかりに声のトーンを少し落とした。
< ここからはオフレコで頼むよ。その女が真田君と同じプロダクションてのは週刊誌にも書いてあったことだけど… >
「あ、あの家族で経営してる弱小プロダクションのことね。それがどうかした?」
< 彼女はプロダクション創立時からのメンバーで一番の古株らしくて…… >
「らしくて…、なに? もう、早く言ってよ」
飛鳥の催促をもて遊ぶように彼は少し間を空け、更に勿体ぶるかのように声をひそめた。
< それだけじゃない。週刊誌でさえ気づかなかった事実があるんだ。実は……… >
意味ありげなその言葉を聞き終えた飛鳥が、眉をひそめながら叫んだ。
「え…? ちょっと待って! 大事なのはリュウの気持ちでしょ? いくらプロダクション側が……」
< さあね、この世界は何が起こっても不思議じゃないから。ジュリちゃんも覚悟しておいた方がいいかも >
「そ、そんな…」
ビールを入ったグラスを大きな窓辺にカタンと置いて呆然とする。
眼下には人工的にうやうやしく光る数え切れないほどのネオン。ふと首を伸ばして上を見上げると、大都会の真っ暗な夜空にうっすらと夏の第三角形が浮かび上がっていた。
「…ね、そういえば今日は何日?」
< は? 何だよ、急に。えーっと…、ちょうど日付が変わったぞ。7日だよ、7月7日。おっ、七夕だな >
「織姫と彦星…。年に一度しか会えない恋人同士……」
< へ? 何か言ったか? おーい、アスカ! >
自分の夫の声にハッとして我に返る。
「ああ、ごめんなさい。よく分かったわ。本当に色々ありがとう。もうそろそろ寝なきゃね」
< そうだな。アスカもあと2日間頑張れよ。オヤスミ >
相手が先に受話器を置き、ツーツーッー…、という音を確かめてから飛鳥も電話を切る。
そして華やかなはずの芸能界の裏側を想像しては背筋が寒くなっていた。まるで見えない大波に飲み込まれていくような感覚にも囚われる。
ベッド脇のサイドテーブルに置いてあるリモコンを手に取ると、エアコンをピッと止めた。
「ジュリが心配だわ…」
飛鳥は不安気に呟くのだった −。