ピエモンテの風に抱かれて
樹里がその意味を理解するには、時間はかからなかった。
「お父さんの会社が、出来たの…?」
龍の無言の返事は、残酷にも肯定を意味していた。
「どうして? まだまだ先の話だと思っていたのに…」
「俺も知らなかったんだ。親父もお袋も、俺に言いにくくて黙っていたんだ」
龍の父は小説家兼イタリア近代文学の翻訳家として、トリノに拠点をおいていた。しかし、いずれは故郷の東京で翻訳会社を立ち上げることになっていた。
一家は最初から父親の国に行く運命であり、ついにその日がやってきたのだ。
「そんな…、ちょっと待って。発つのはいつ?」
龍は一呼吸おくと観念したように、うつむきながら言った。
「来月の頭だ。お袋はもう引っ越しの準備を始めてる」
「う…そ、8月? そんなに早く?」
こうなることは最初から分かっていた。覚悟していたことなのに、動揺は隠せない。
そして龍の言葉が、気持ちに輪をかけてしまった。
「だからその指輪、ずっとつけてて。俺だと思っ…」
喜んで受け取ったはずの指輪にこんな意味が込められていたとは −。ショックのあまり涙が込み上げてきたが、くるりと龍に背中を向けた。
「リュウ、分かったわ。私、まだ後片付けがあるから行かなきゃ…」
「ジュリ…?」
「行か…ないと…」
ドアノブに手をかけたその時 −。