ピエモンテの風に抱かれて
溢れる龍への想い

「お疲れ様でした! 日本の夏は本当に蒸し暑いですね。この湿度はイタリアじゃ考えられないです」



「そうね。私ももう一度イタリアに住みたくなるわあ。でもだからこそ一日の終わりのビールが美味しいの。さっ、飲も飲も」



ザザザザァーン、というベランダのガラス越しに聞こえる波の音。時は真夜中の0時前。


ツアーは最初の行き先である横浜・鎌倉観光を終え、二人は海沿いにあるホテルの一室でシャワーを浴びると浴衣に手を通し、完全に寛いだ状態で缶ビールを片手にしていた。



ツインベッドに向かい合うようにして腰掛ける。ベッドの上には無造作に置かれたおつまみが。飛鳥が用意したのは、チーズやチョコレートでコーティングされた柿の種だ。



「日本のお菓子って、たくさん種類がありますよね。柿の種をチョコで包むなんて発想が、信じられないです」



「チョコなんて昔からあるわ。今はね、ディップ付きのもあるのよ。カレーやタルタルソース、甘酸っぱい柑橘系とか」



えー、本当ですかぁ? と言いながら物珍しそうに柿の種を口にする樹里に、飛鳥は少し真面目な声で問い掛けた。



「さあ、ジュリ。聞かせて? 元気そうにしてるけど、本当は例のキス事件が気になっているんでしょう?」



核心に触れられると、樹里は瞬間的に固まってしまった。



「あ…、さすがアスカ先輩ですね。何もかもお見通しって感じ」



「リュウのことは時々旦那からも聞いていたの。でもまさかあんな記事が出るなんて」



飛鳥の夫は音響関係の仕事をしている。テレビ局にも出入りするため、ちょっとした芸能情報通なのだ。



樹里は残ったビールを一気飲みすると、今まで誰にも言えなかった想いを全て飛鳥にぶつけた。



「あの記事は本当なんですか? リュウは何て言ってるんですか? 旦那さんは何か噂を聞いていないんですか? 私、本当は居ても立ってもいられなくて…」



あの雑誌を見てから、ここに至るまでは忙しさの連続だった。誰にも相談などする暇などなく、空港でサーシャと話をしたのが精一杯だったのだ。



「そっか。今まで我慢してたのね」



飛鳥は樹里の横に座り直すと、彼女の肩にそっと手を置いた。



「でも分からないことがあるわ。どうしてジュリは何年もリュウと連絡を取らなくなったの?」



「それは…」



「そうよね? 何か理由があるんでしょう?」



「ただの幼なじみや友達だったら、平気で連絡していたと思うんです。でも私は恋人だったから…」



「うん」



「だったから…、自然消滅した昔の恋人なんて、リュウにとっては邪魔なだけかと思うと怖…」



「うん」



「こわ、怖くて…」



「うん、うん」



「リュウのアドレスや携帯番号がいつの間にか使われなくなっていたのも凄くショックで…」



「そうよね。真っ先に恋人に連絡するべきなのに」



「信じられなかったです。家の電話番号まで変わってたんですよ。でもリュウは面倒くさがり屋だから、連絡するのを後回しにしてるだけかと思っていたのに」



深くうなずいた飛鳥は、自分にも身に覚えがあるように語り出した。



「んーー、そういうことだったの。遠恋の気持ちは痛いほどわかるわ。私もトリノに行ってた頃を思い出すから。何かと不安になるものよね」



飛鳥がトリノに赴任していたのは1年間だ。いまは結婚して夫となった彼氏とは学生時代からの付き合いであり、婚約もしていたのだった。



「アスカ先輩も彼氏と離れ離れになるなんて辛かったですね。でも当時はそんなそぶりは全然見せなくて、強い女性だなあって、ずっと思ってたんですよ」



「いやねえ。そ、そんなことないわよ…」



飛鳥は照れ臭そうにすると、立ち上がって冷蔵庫へ向かった。そしてすぐに話を元にもどした。



「で、ジュリは例の記事を見て、やっぱりリュウに会いたくなった、ってこと?」



「そうなんです。新しい番号を調べてきたから、仕事の合間にでも
彼にかけていいですか?」



「もちろん。いまリュウは基本的に東京にいるはずよ。いま出てるミュージカルが始まったばかりだから。
つい10日前は大阪で公演してたの。順番が逆じゃなくてラッキーだったわね」



「大阪だったら、会える可能性はゼロだったんですね」



そう。龍はいまミュージカルの東京公演の真っ最中であった。常に仕事で日本全国を飛び回る
忙しい彼と連絡を取るには、絶好のチャンスだ。



飛鳥は2本目のビールを樹里に渡すと、続けて言った。



「それに、もしかするとリュウだってジュリと同じ気持ちかも」



プシューッという音を立てて開けられた缶ビールに同調するかのように、樹里もハッと
した。





「リュウが、同じ…?」

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