ピエモンテの風に抱かれて

「あ、あのね。ジュリはもういい、って言ったけど、私は納得がいかなかったの」



慌てた飛鳥は気まずそうに言い訳をし始めた。



「だから何でもいいからリュウの情報を調べようと思って手当たり次第検索したの。そうしたらこんなのが出てきちゃって…」



目を覆いたくなるような中傷の数々。昔の龍からは全く想像がつかない。もちろん彼のことを良く知らない一般人が書き込みをしているに違いない。だからこそ信じたくはない。しかし……、



「ひどい。リュウが…こんなことをしてるなんて、本当に…?」



彼に対して精神が不安定になりつつある樹里は、中傷の言葉をストレートに受け止めてしまう自分しかいなかった。



「そ、そりゃあ私も最初は驚いたわよ! リュウがそんな人だったの? って」



必死に取り繕う飛鳥だが、時は既に遅い。樹里は椅子から立ち上がり、無意識に部屋の片隅にある荷物置場へと向かった。彼女に背を向けたかったのだ。ふつふつと自然に沸いて来る怒り。これは一体何なのだろう −。



「ねえ樹里? こんなの信じちゃダメだってばっ」



今度は明るい調子で飛鳥は言う。
「彼は絶対にそんな人じゃないでしょう?」



その言葉が更に樹里を逆なでた。龍に会ったこともない彼女に何故そう言い切れるのか? 所詮は他人事なのだろう。龍のことを忘れたいのに、こうして振り回されてしまう。




− 何かしないと… −




意味もなく黙々とスーツケースの中を整理していった。




− 誰か助けて、誰か…。取り繕うばかりの先輩じゃない、誰か −




― 『人ってのは変わるものだよ』 −




不意にサーシャの台詞が頭を過ぎった。無愛想だけど、いつでも的を射た発言をする彼のあの言葉を −。



「人は変わるものだって、サーシャが言ってました」



「え…、サーシャがそんなことを?」



「スポーツの世界で何人も見てきた…って。それに火のないところに煙は立たないって言うじゃないですか。その諺は世界共通ですよ」



昔の彼はもういない。噂通りの人間になってしまったのだ。そう考えれば自然消滅した訳も、着信拒否の理由も全て納得がいく。



すると手に固いものが触れた。



「あ…」



それはおじいさんのワインだった。スーツケースの一番安全な場所に、大切にしまってあった、龍に渡すはずであった赤ワイン。



大切そうに取り上げ、悲しい笑顔で見つめるうちに、目頭に自然と熱いものが込み上げてきた。そのままどうしようもない感情の渦に支配されてゆく。



背後では飛鳥が何か言っている。
やっぱり本人に会って確かめるのだとか、何がなんでも会いに行きましょうだとか。
もはや樹里にとっては耳には入らないし、聞きたくもなかった。



「そもそも先輩は…」



行き場のない想いは…、


「リュウに会ったこともないのに、どうしてそんなに積極的なんですか?」



飛鳥にぶつけられた。



「どうしてそんなに応援してくれるんです?」



「だってジュリ、あなたがあんなにリュウを…」




− 今度は私のせい? −




樹里の苛立ちは、本人も予想だにしない展開を招いていく。まったく心にもないことを言ってしまった −。



「リュウが有名人だから?」 



「はあ?」



「自分も彼に近づきたいだけなんじゃないですか!?」



低く、冷たい調子で言い放った樹里に、飛鳥は目を白黒パチパチするばかり。



「それとも興味本位ですか? 芸能人との恋の行方が気になるとか?」



あまりに短絡的な樹里の発想に、飛鳥は言葉も出ない。



「だけどもう期待しないで下さい。私はもういいって言ったじゃないですか! とにかくリュウのことは忘れさせて下さい!!」



飛鳥の怒りはここで頂点に達したが、長年ツアーガイドをこなして養われた冷静さで、ぐっとこらえた。冷蔵庫から静かにビールを取り出し、缶のまま口につけた。もちろん後輩にグラスを差し出す気にもなれなかった。



それは2人の関係の決別を意味していた。



飛鳥が1人でビールを飲む気配を察し、樹里はすぐさま立ち上がるや、洗面所に駆け込み激しくドアを閉める。いつものように「使いますよ〜」の気遣いもなく。
さっと洗顔し、歯だけ磨いてベッドに潜り込みたかったのだ。



飛鳥は、樹里が洗面所に籠ってくれて良かったと思っていた。でなければ彼女の頭にビールをぶっかける衝動を抑えられなかったかも知れない。



そのままパソコン画面に映っている中傷スレッドを削除し、樹里がやりそびれた仕事をささっと片付けて翌日スケジュールの確認に入った。



一方、仕事を続ける先輩に、おやすみも言わずに横になる樹里。ベッド脇のデジタル時計は00:00を示していた。都会の喧騒が徐々に静まっていく中…



二人の関係も、完全に冷えきっていくのだった。


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