ピエモンテの風に抱かれて

「はい? 何でしょう?」



60代に差し掛かろうかという男性の返事は意外にも穏やかだった。無表情でシビアに業務を遂行していくというイメージがある警備員にしては意外に感じ、ホッと胸を撫でおろした。



「すみません。私、劇場のフリーパスを申請している者ですが、手続きをお願いできますか?」



彼は、ああそうですか、と言いながら樹里をドアの中に招き入れた。そして手慣れた様子で一枚の紙を差し出す。



「この用紙の黒枠に記入して下さい。身分証明をお持ちできたら拝見できますか?」



海外旅行をする時、命の次に大事なパスポートはいつも首から下げ、服の中にしまっていた。それを大切そうに取り出すと、警備員は少し物珍しそうな顔をした。



「あ、外国の方だったんですか。日本語がお上手ですねえ。ご旅行中とか?」



そう言って、パラパラとパスポートをめくる。しっかりと出入国スタンプをチェックすると、



「ほぅ、イタリアからいらしてるんですか。いい所ですよねえ、食事は美味しいし…。あ、住所はいま泊まっているホテルも書いておいて下さい」



まるで世間話をするかのような口調に、樹里はクスリと笑ってしまった。用紙には氏名、年齢、性別、住所、電話番号、ホテル名などが順調に埋められていった。



しかし最後の欄にくると、ペンを進めていた手がピタリと止まった。
















− 申請者の名前……? −

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