ピエモンテの風に抱かれて
もちろん苗字を聞いたことはある。ただ、常にファーストネームで呼び合い、ツアー客からも苗字で呼ばれることなどなかった。
仕事の時は胸にネームプレートをつけているものの、小さなアルファベットで書かれており、まじまじと見たこともない。
神経を集中し、頭をフル回転させても思い出せない。灯台元暮らしとはよくぞ言ったものだ。こんな時に肝心なことを忘れるとは −。
「どうかしましたか? 分からないことでも?」
「すみません、少しだけ待ってもらえますか?」
こうなると確認するしかない。樹里は平静を装いつつ、祈るような気持ちで携帯を耳にあてた。