涙の跡を辿りて
 ケセは駆け出した。階段を一番飛ばしに下りていく。
 寝室の扉を暴くとヒトカが一生懸命、自分の名を呼んでいた。涙に濡れながら。
「ヘセ……へ…ケ…ヘセ、……ヘセ!?」
 ケセの視線とヒトカの視線がぶつかる。
 深緑の瞳は泉のようにこんこんと涙を湧き出させる。
 ケセはそっと前に進んだ。足元にパッチワークのベッドカバーが落ちている。ヒトカが大切にしていたパッチワーク。
「ヘセ、ゴメン、ヒトカ、ゴメンナサイ」
「悪かった」
 ケセは心底から言った。
 そして、気付いたら抱き締めていた。
「ヘセ?」
 不思議そうに、ヒトカは声を出す。
 唐突な温もりに混乱するヒトカの目は見開かれている。その頬を伝う涙に、ケセは唇を寄せた。
「ヘセ……!? へ……!! ん……」
 頬への接吻に戸惑うヒトカの唇を、ケセは奪う。最初はただ重ねるだけ。拒まれるのを恐れて。だけれども、ヒトカが腕の中から逃げ出す気配が無い為、ケセは段々と貪欲になっていく。
 吐息を零すために口を開けたヒトカはケセの舌の侵入を許してしまう。
 耳まで真っ赤に染めながら、ヒトカはケセにしがみついた。
 それに勇気付けられたケセはヒトカの舌を己の舌と絡ませ、強く吸った。背中にしがみつく力が、どんどんと強くなる。
 拒絶するなら、胸を押す筈だ。さもなくば叩くなり足を蹴るなり、なんなりと方法があるだろう。
 受け入れられた? 
 ヒトカはケセにしがみついて離れない。
 ケセはヒトカの心を覗き見たくなる。
 何故なら自分の気持ちは解ったから。解ってしまったから。
 物書きのくせに言葉に不自由で、馬鹿な男はきっと恋をしている。
 唐突に辿り着いた真理。
 いつからかなど解らない。
 ただ。
 こうなる事は運命だったのだと解る。
 ヒトカの何処に惹かれたのだろう?
 美しさ?
 優しさ?
 そんなものは確かに理由の一端になるかもしれないが、美しくて優しいものなど他に幾らでもいる。だが、他の誰かでは駄目なのだ。
 ケセには、ヒトカでないと、駄目なのだ。
 きっと恐らく、出会ったその時に恋をした。
 愚かな自分は、その事を、精霊を見た事への歓喜に置き換えたけれども。
 ではヒトカは? ヒトカの気持ちは?
 無理やり唇を奪った自分に対し、ヒトカはどう思っているのだろう?
 ヒトカは何故拒まない?
 だけれども拒まれないことはケセに小さな勇気を与えた。
 そっと唇を離すと、ヒトカはケセの胸に倒れこんできた。
 ヒトカはケセの執拗な口づけに、腰の力が抜けてしまったようだ。そのまま、ケセはヒトカの身体を隣のベッドに押し倒す。
 ケセとヒトカは、一緒に寝た事がなかった。
 ケセはいつも仕事をする二階のベッドで眠っていたから。
 故に一階のこの寝室のベッドはヒトカがこの家に来て以来、ヒトカしか使った事が無い。
 ヒトカの胸が早鐘を打った。
 口づけの後のベッド。
 そこから予想出来る展開は、しかし、決してヒトカは嫌じゃなかったのだけれど。
 だが、両手を寝台につき、ケセはヒトカから距離をとる。
 抱くために押し倒した訳ではないのだ。
「僕はヒトカが好きかもしれない」
 断定できないのはケセが恥じているからだ。
 己の欲望に余りに忠実なキスをした為。だが。
 ヒトカは恥らうように微笑むと接吻を返す。
 強く抱き締めたなら緑の匂いがした。
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