涙の跡を辿りて
 呆れたような声を出すディオヴィカに、ケセは笑ってみせる。
 精霊の女王と直談判を思いついた時点でケセは死を覚悟していた。今のケセに怖いものなどなかった。
 たった一つを除いて。
「そなたが何を考えておるか、手に取る様に解るぞえ。だが、そなた、そう恐れる事もない。これは一種の賭けじゃ。ヒトカが妾の願いを叶えてくれたなら、クーセル村に掛けた呪を解こう。そしてそなたらが二人して生きていく事も許そう。ヒトカは今、純粋に精霊と呼べるものではなくなってきておる。そう、余りにも人間らしい。そなたらにとっても悪い話ではない筈じゃ。妾の為にヒトカが働き、その結果人間の娘に『成る』」
「その間僕は……? ヒトカが人間に『成る』って」
 ケセは尋ねる。僕は何をするのだろう?
 ついっと、女王はケセの額を衝いた。
「眠れ」
 よろける足でケセは立ち上がった。
 そして一つの氷像が出来上がる。
 テーブルも、テーブルの上の食べ物も一瞬で消えた。
 そこに立つのはディオヴィカと氷に閉じ込められたケセのみ。
「許してたもと言うには大きすぎる代償よの。我が愛し児よ。妾は妾が愛するものには幸せになってもらいとう思うのじゃ。総てが終わったら、妾の事も笑い話に出来る。ケセ、そなたにはその才能がある。前に行く事を怖れるな。未来永劫、そなたの守護はヒトカじゃ」
 氷の中のケセは、頷こうとした。だが、出来ない。ディオヴィカからはなんの害意も感じられなかったから、ケセは大人しく術にはまった。
 だが、総て聴こえるし、視えるのだ。
 女王の胸に咲く紅い花、心が噴出す血液までも。
 ふわりとディオヴィカは宙に浮かぶと、ケセの唇部分にキスをした。
 そこに、ヒトカが辿り着く。
《女王…様……? ケセに、何したの?》
 ヒトカは震える声音でそういった。
 ここまで辿り着くのが中々困難であったようだ。ヒトカの不可思議な色彩の髪の毛は凍り付いており、唇も紫色に変わっている。だが、ヒトカはこの時点ではまだ『精霊』であった。震えはしていない。ディオヴィカはそんな愛し児(めぐしご)に助けの手を伸ばさない。ただ昂然と微笑んでいるのみだ。
 その微笑みはまさしく地上の女神であった。
 ディオヴィカは本来、女神と呼ばれる存在である。ただ、精霊を統べるに相応しい存在がいなかった為、彼女が地に降りる事になったというだけの話だ。
《お願いです。ディオヴィカ様、ヒトカは何でもします。ですからケセを助けて下さい!》
《何でも?》
 ディオヴィカの唇に喜色が走る。その唇をぺろりと舐めた舌は、余りに赤々としていて、淫靡だった。
 幼女のようで、そうではない女王。
《その言葉、真実かえ?》
 今更取り消すだなどといっても決して聞き入れ無いくせに、ディオヴィカは問うた。
ヒトカは両腕を交差させ跪く。
《天地神明、そして我が女王ディオヴィカの名において、我が心の真実である事を誓うなり。偽り在りし時は、この胸を切り裂き、心の臓を取り出し給え》
 ヒトカは宣誓が済むと、立ち上がった。
《そなたが心に偽りなし!》
 ディオヴィカが叫んだ。
《ならば探してみやれ。我が心の琴線に触れるものを。それを妾に捧げたなら、この者を抱く氷は解けるであろう》
《心の琴線に触れるもの?》
《そうじゃ》
 ディオヴィカが笑った。声高く笑った。
 何という事を言うのだろう、この女王は!
 シンシンリーにおける総ての恵みは、女王の力によるものだ。
 そして神の眷属である彼女に、この世で叶わぬ事など、無い。
 その彼女の心の琴線に触れるものなど、どうやって探せというのだろうか?
《女王、お言葉ですが一体どのようなものを》
《それはそなたが考えることじゃ。しかし、ヒントが欲しければ考えんでもない。代償と引き換えにじゃが》
《代償!? ヒトカから何を?》
《その髪を》
 嫣然としたディオヴィカに、ヒトカは戸惑う。髪はヒトカの力の象徴、だが……!!
 精霊としての自分より、ケセの方がヒトカには大事だった。
《受け取り給え。我が女王》
ざくりと、音がした。風の精霊に頼み、真空の刃で切ってもらったのだ。
 ケセとヒトカの、試練の刻
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