涙の跡を辿りて
ヒトカの章3・試される刻
 ミリエルの表面上の性格には問題があったが、その裏には、優しい気性があった。
 ディオヴィカがミリエルを嫌ったのはまさにそこだった、という事に気付くにはヒトカは物を知らなさ過ぎた。ミリエルとディオヴィカは、似ているのだ。
 ミリエルは良い看護人でもあった。ヒトカの手にも足にも、力が戻ってきた。もう痛みは何処にもなかった。ただ、薬湯の味がもう少し何とかなったなら言う事は無かったのだが。その薬湯の味は筆舌に尽くし難かった。それは決して美味で、という訳ではない。
 ミリエルは三度の食事と寝る前に必ず薬湯を飲ませた。気難しい顔をして、一滴でも残したらただじゃすまさないよという風に。
 そして二日目の夜。
 ミリエルは言った。
《おやめよ。茨の谷に行くのは》
 唐突なミリエルの言葉に、ヒトカは驚く。
 今夜の夕食の時、明日はいよいよ茨の谷に向かおうと、ヒトカは興奮しながら言った。
 ヒトカには時間が惜しかったのである。早く早く、ケセを助け出したかった。そしてあの腕で抱いて欲しかった。温かい胸に顔を埋めたかった。キスしたかった。
 夕食は、ヒトカがミリエルから助けられてから初めて、ベッドから抜け出す事を許された時間でもあった。
 ヒトカと自分の為に、ミリエルは果物とスープを用意した。
 ご馳走である。冬場の果物は貴重なものであった。スープには、香草が沢山入っていた。
《有難う、ミリエル》
 ヒトカが礼を言うが、ミリエルは何かに気をとられているようで、「ああ」としか言葉を返さなかった。
 その様子が気にならないわけではなかったが、ヒトカは自分の事で頭が一杯だったのだ。ミリエルを思いやる心のゆとりなど無かった。
 それに、ミリエルも楽しみにしているはずだ。婚約者との指輪、きっと見つかるという確信がヒトカにはあった。根拠は無かったけれども。
 それなのに。
 眠る前の薬湯を寝室に運んできたミリエルは唐突に言ったのだ。
《何故? 代償は払わねば》
《代償は充分貰ったよ。私の事を思い出して、訪れてくれた事、話し相手になってくれた事、それで充分だよ。四十八年間、孤独に暮らしていた私の許に、私を頼って訪れてくれた事、それだけで……、あんたの手足と命の代償になる。……私は……》
 ミリエルの緑の瞳から涙が零れる。
 それは綺麗な涙だった。
 恋人も友もおらず、独りだった四十八年間。
 精霊には瞬きのような間だが、人間にとってはどれほど長いことだろう。
 いや、瞬きほどの間ではない。
 自分は、一瞬でもケセがいないと寂しい。氷漬けになっているケセの事を思い出さない時は無いのだ。
 四十八年間、ケセが氷漬けだったら?
 そんな事耐えられない。
《僕の命と手足の代償……仮に貴女がこの二日間でそれを得たとしても、では女王の欲しいものを教わる為には? まだ代償が足りないのではないかな?》
 ミリエルは目を伏せた。
 沈黙が舞い降りる。
 ヒトカは話しかけない。ミリエルの言葉を、ただ、静かに待つ。
 やがて、ミリエルは伏せていた顔を上げてヒトカをまっすぐ見据えた。
《精霊にとっての二年間は瞬き程の間じゃないかい?》
 ヒトカは眉を上げた。
 二年間?
《私が役目を果たしたなら、女王様に願い事を一つだけ、する事が許されている。その時、あんたの恋人の身体と魂を自由にして欲しいと懇願するよ。あんたは何もしなくて良い。ただ、此処にいてくれたなら》
 ヒトカは一瞬だけ、その事を考慮した。確かに、茨の谷で指輪を探すより確実だ。
 だが答えは。
 否、だ。
 ヒトカは首を振った。
《自分の手で勝ち得ないと意味の無いものなんだ。きっとそんな気がする。僕に課せられた試練なんだ。ミリエルに助力を請う事は許されるだろう、だけれども、ミリエルに全て委ねる事を女王は許さないだろう》
 ミリエルは溜息を吐いた。それはそれは深い溜息を。
《いいだろう、ヒトカ。代償はその手で購え。私はそれを受け取るまで、巫女の資格を失ってもこの山に留まるだろう》
< 38 / 55 >

この作品をシェア

pagetop