トイレキッス
淵上はため息をついた。
「信じてくれへんかもしれんけど言うわ。わたしね、自分からひとに話かけることができん人間なんよ。相手から先に何か言ってくれんと、一言もしゃべれんのよ」
「そんなことって」
「あるんよ」指で畳目をなぞる。「いつから自分がそうなったんかはわからん。誰かに話かけようと思うと、急に怖くなるんよ。相手とうまく会話できる自信がなくなってしまうんよ」
おかげでこんなかわいくない女になってしもた。そう言いながら、淵上は自分の顔を指さした。そこには、あいかわらずの無表情がはりついていた。
「それじゃあ、あやまれんかったっていうのは」
「そう。この妙な性格のせいで、わたしはすまないと思っても、それを口に出すことができんかったんよ。誰かが叱りつけてくれたらあやまれたんやけど、その頃からわたし無愛想で、気軽に声をかけてくれる部員なんてほとんどおらんかったけん、誰も何も言ってくれんかった。仁さんや藤沢さんはやさしいけん怒らんかったけど、他の部員はずっとわたしをにらんどった。なんでこいつはごめんの一言もないんやって、全員が目で責めとったわ。それでも、わたしは、あやまれんかった」下を向く。「あのときは、ほんまに泣きそうやったわ」
ふと時計を見上げて、七時半か、とつぶやいてから、淵上はつづけた。
「そしたらね、急に三田村がわたしをたたいたんよ。小道具のスリッパで。そして、あほって言ってくれた。わたしはそこでやっと、ごめんなさいって、あやまることができた。三田村は、次にこんなことがあったら、おれの臭い上履きでどついたるけんな。臭いがつくのが嫌やったら、今度から気をつけるんやでって言いながら笑ってくれた。すると、空気がなごんで、部員達の顔からも怒りがなくなっていった」目付きがやさしくなった。「その瞬間、わたしはこのひと好きになったって思った」
そのあと、洋平と淵上は、会話を再開した。会話のリズムはあいかわらずぎこちなかったが、それでも、洋平の淵上に対する苦手意識はさっきよりも減っていた。
とりあえず、洋平がなるべく淵上と三田村が話す機会を作るように努力する、ということで話はまとまった。
「ごめん、こんな夜おそくに。とにかく誰かに相談したくてたまらんかったんよ」
「いいですよ。いつでも相談してください」
部屋を出ようとしたとき、淵上はふと本棚に目をやった。
「これは」
「え?」
彼女の視線をたどって本棚を見ると、そこには、「恋愛上手になる本」という題の文庫本があった。淵上は、興味深そうな顔で、それを取り出した。
洋平は首をひねった。こんな本を買った記憶がないのだ。
「この本、貸してくれへん?」背表紙を見ながら淵上が聞いた。「参考になるかもしれんけん」
「はあ、いいですけど」
「ありがと。読んだらすぐに返すけん」
洋平の両親にていねいなおじぎをしてから、淵上は家を出ていった。