トイレキッス
「あ、すいません。まだです」
洋平はあわてて巻き尺をふたたびのばす。藤沢はミツキを見上げた。
「川本さん、麻見君の邪魔せんといてや」
いつもの藤沢らしくない棘のある口調に、ミツキは困惑の表情をうかべた。
「ごめんなさい」
「主役に選ばれたからって、あんまり調子に乗らんといて」
ミツキの息をのむ音が聞こえた。
空気が冷たくなった。
巻き尺をのばす手を止めて、洋平はふたりを見た。どちらも、眉間にしわをよせている。
「どういうことですか?」
かすれた声でミツキが聞いた。
藤沢は何も答えない。
「わたし、調子になんてのってません」
なぜか洋平をいちべつしてから、藤沢は口をひらいた。
「どうだか」目を細める。「仁さんに認められたと思って、いい気になってるんやないん?」
なんとなく、藤沢はどこか無理をしているような気がした。
「ちょっと、ふたりとも」
洋平はつぶやいて立ちあがった。顔を赤くしたミツキは、舞台から飛びおり、藤沢の前に立って、押し殺した声で聞いた。
「なんでそんなこと言うん?」
藤沢はまたもや無言を決めこんだ。ただならぬ気配を察して、他の部員達がこちらに注目した。
おれが止めなあかん。
そう思って洋平も床におりた。にらみあうふたりの目は、どんどん鋭くなっていった。
そのとき、
「やめ」
講堂をゆらすかのような恫喝がひびいた。その場にいた全員が同時にびくっと体をふるわせた。顔を向けなくても誰だかわかった。このような声量を持つ人間は、この部にはひとりしかいない。
「やめ」
恫喝の主、仁さんは、講堂の入口からこちらを見つめながら、今度は静かに言った。さっきまで外で食事をしていたのだろう、その手には弁当箱がにぎられていた。
仁さんの姿を見たとたんに、藤沢の表情がくずれた。
「ごめん」
ミツキにむかって低くつぶやいてから、藤沢は早足で講堂から出ていった。