トイレキッス


「あ、すいません。まだです」


洋平はあわてて巻き尺をふたたびのばす。藤沢はミツキを見上げた。


「川本さん、麻見君の邪魔せんといてや」


いつもの藤沢らしくない棘のある口調に、ミツキは困惑の表情をうかべた。


「ごめんなさい」


「主役に選ばれたからって、あんまり調子に乗らんといて」


ミツキの息をのむ音が聞こえた。
空気が冷たくなった。
巻き尺をのばす手を止めて、洋平はふたりを見た。どちらも、眉間にしわをよせている。


「どういうことですか?」


かすれた声でミツキが聞いた。
藤沢は何も答えない。


「わたし、調子になんてのってません」


なぜか洋平をいちべつしてから、藤沢は口をひらいた。


「どうだか」目を細める。「仁さんに認められたと思って、いい気になってるんやないん?」


なんとなく、藤沢はどこか無理をしているような気がした。


「ちょっと、ふたりとも」


洋平はつぶやいて立ちあがった。顔を赤くしたミツキは、舞台から飛びおり、藤沢の前に立って、押し殺した声で聞いた。


「なんでそんなこと言うん?」


藤沢はまたもや無言を決めこんだ。ただならぬ気配を察して、他の部員達がこちらに注目した。


おれが止めなあかん。


そう思って洋平も床におりた。にらみあうふたりの目は、どんどん鋭くなっていった。
そのとき、


「やめ」


講堂をゆらすかのような恫喝がひびいた。その場にいた全員が同時にびくっと体をふるわせた。顔を向けなくても誰だかわかった。このような声量を持つ人間は、この部にはひとりしかいない。


「やめ」


恫喝の主、仁さんは、講堂の入口からこちらを見つめながら、今度は静かに言った。さっきまで外で食事をしていたのだろう、その手には弁当箱がにぎられていた。
仁さんの姿を見たとたんに、藤沢の表情がくずれた。


「ごめん」


ミツキにむかって低くつぶやいてから、藤沢は早足で講堂から出ていった。






< 54 / 134 >

この作品をシェア

pagetop