妖花


 口入れ処を通して、「大犬の退治を頼む」との依頼を受け、菊之助はさっそく依頼元の魚河岸へと足を運んだのだった。

 その大犬は近頃よく魚河岸に姿を現し、好き放題に暴れて魚を奪っていくらしい。

狼を相手にしているわけではあるまいし、邪魔ならば斬ればよかろうに。

菊之助は頬杖を突きながら犬を待ち受けた。

そして長らく待つまでもなく、犬は魚河岸にやって来た。

 存外、犬は強かった。胴が長くしなやかな巨体の黒犬である。

狼と見紛うほどだ。人の手に負えぬ理由も分かる気がした。

 犬はやはり、魚河岸で扱っている魚が目当てのようだった。

ただ魚をやって犬が静まってくれるのならばそういう手もあるが、魚を毎度強奪していくのだから、一度餌をやったところでまたここへ魚を奪いにくるに違いない。

 菊之助は素早く身構えた。自分を敵とみなし飛び掛かる犬を払いのけ、鯉口を切り、牙を剥き出して吠える犬の額めがけて、がつん、と刀を振り下ろした。

とどめにその首を切ろうとした刹那。

菊之助はその犬の大きく膨らんだ腹と乳を目の当たりにしたのだった。

(いくら銭が出るとはいえ……)

 自分で殺したくせに、ひどく胸が痛む。

 それでも懐にしまった一朱銀二枚を掌に乗せると、達成感で少しはやり遂げた気分になれた。

悪いが俺たちは生きるためにゃ、銭が必要なんだ。

お前さんを退治しなけりゃ、報酬が貰えないんだよ。

と、犬に対して言い訳でも述べて誤魔化すように、菊之助は独り口走った。

しかし、いつまでも気分は悪いままだった。

 ぎゅるり、と腹が鳴く。

蕎麦屋にでも立ち寄ろうかという誘惑に駆られるが、今頃は姉が長屋に帰ってきて飯の支度をしているだろう。

早う飯を食わせ、とばかりに鳴き続ける腹の虫に従い、菊之助は腹に力を入れてうるさいものを鳴りやませた。
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