ようこそ森の診療所へ
「…う…」
耳元で聴こえた呻き声に、ぼくは目をさました。木香が染み込んだ霧の代わりに、埃っぽい空気にぼくはむせかえる。うっすら開いた目に飛び込んできたのは、仄かに灯るランプと薄暗い天井だった。
身を起こそうとして触れた布団の感触に、自分がベッドに寝かされていることに気付く。辺りを見回してみると見覚えのない部屋。誰もいないことから、ぼくは自分の声で目をさましたんだなと思った。
見た目のわりに軽い布団を跳ね上げて、ぼくは起き上がる。なんだよ、こんな狭くてぼろっちい部屋なんて知らない。自然と浮かんできた感想にぼくは違和感をおぼえた。

ぎしりとかすかな床板の悲鳴がきこえる。誰かきた。ばっと顔をあげるとそこには、子供。切り揃えられた前髪に半分隠れた目が、みるみる見開かれていく。
重そうな本をばさりと落とすと、彼…だか彼女だかわからないけど、その子はぱたぱたと去っていった。
なんだよ、ひとの顔見て逃げるなんて失礼だな、と思って頬を膨らませていると、あわただしい足音が聞こえてきた。
「目を覚ましたのか!」
のれんをくぐって現れたのは、ぼさぼさ頭の男のひと。彼はベッドの傍らにあるイスに腰かけると、ぼくのおでこに手をやる。
「うん、体温は安定したみたいだな」
慣れた手つき。そして横目に入ったよれよれの白衣に、このひとの職業が予想できる。

ばにら、お医者さまを連れてきたわよ

姉の声が脳裏に甦る。そっか、ぼくは病院に入れられたんだ、となんとなく理解した。
「ここは…」
「ここは森の診療所。そして、おれは医者だ」
柔和な笑みを浮かべて彼は言う。ぼくを安心させるためだろうが、その笑顔は彼を幼く見せて、ぼくをいささか不安にさせた。笑わなくても彼は童顔だった。くたくたな白衣に似合わず。いったい何歳なんだろう。
怪訝な顔で彼を見定めていると、あるものが目についた。
白くて丸っこい小動物。この世界にありふれた小動物で、グミとかいう名だっけ。それが彼の襟元からひょこっと顔を出している。
ぼくははっとした。そして、服を上からくまなくぱたぱたとはたく。
「おいる! ぼくのおいるはどこ?」
おいるは、ぼくのペットのグミだ。物心ついた頃から一緒にいて、ぼくの…一部だ。比喩じゃなく、文字通りに。
「まて、まて、大丈夫だから」
ひどく狼狽するぼくを、医者は軽く宥める。
「ちょっと預かってるだけだ。すぐに返すよ」
「はやく、はやく返してよ、はやく」
あまり急かすと、妙に思われちゃうかな。そう思いつつも、ぼくは逸る気持ちを抑えられない。
対して、医者は相変わらずのんびりとこう言った。
「その前に、ひとつ質問に答えてくれるか?」
「なんだよ」
なんでもいいからはやく返して、そう目で訴えていると、彼は口を開く。
「君の、名前…… 」
「…え?」
「君の名前を、教えてくれないか」

ぼくの、なまえ?
なにをいってんだろ。名前なんか姉に聞かなかったの?
ぼくはすぐに答えようとして、口を開いた。
「……、……………」
あれ。どうしたんだろう。
ぼくの口からは言葉が出てこなかった。
ぼくの名前、という項目をぼくの辞書で引いたなら、当然書いてあるようなことで。いつもなら条件反射で答えられるようなことなのに。
なぜだかぼくの口から出てくることはなかった。
みるみる表情が曇っていくぼくを、医者は寂しげな顔で見ていた。
「あ、あの…ぼくは、ちゃんと覚えてるんだ、だけど、」
ぼくは慌てて言い訳をする。おいるを返してもらわないと。その思いはぼくを焦らせて、さらに訳のわからないことを口走る。
「すぐに出てこないだけなんだ、ちょっと待って…」
医者は、寂しげな顔のまま微笑し、ぼくの肩に手を置いた。もういいよ、という風に。
「大丈夫、焦らなくても。そのうち答えられるようになるよ」
慰めるように肩を数回叩くと、彼は立ち上がった。
「…きみのグミはひどい怪我をしていて、今は治療中なんだ。だから、返すのは治ってからでいいかな」
怪我? どうして。ぼくの疑問に答えるように、ある風景がフラッシュバックする。浮遊感と、恐怖と、迫る床、そして、なにか柔らかいものを潰したような感触。
「階段…。階段から落ちたときかい? そのときの怪我?」
「……うん、そうだよ」
そっか。おもいきり潰しちゃったもんな。
「ひどいのかい?」
「いや、命に別状はないよ」
ぼくはほっとする。おいるにもしものことがあったら大変だ。怪我に気づかないぼくのもとにいるより、ちゃんとしたお医者に預かってもらう方が安全かもしれない。
なんだか肩の荷が下りたような気がして、ぼくはおおきなあくびをひとつした。
「もう一眠りするといい。時間はいくらでもある」
言われるまでもなく、ぼくは布団に潜り込んでいた。なんだか聞いたことのある台詞だな、と思い始めた頃には、もう意識の向こうに足を突っ込んでいた。

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