どこからどこまで
「それで?ドイツ語のどのへんがわかんないの」


 翔ちゃんはどうやらレポートを作成中なようで、ノートパソコンのディスプレイからは目をはなさないものの、そう訊いてくれた。

 パソコンに向かっているときの翔ちゃんはレアだ。なぜならメガネをかけているから。パソコンメガネかな?

 整った顔立ちに太すぎないセルフレームがよく似合う。そんなことを考えながら意味もなくパラパラと辞書をめくった。


「何がわかんないというよりは…何をしたらいいのかわかんない、と申しましょうか……」

「定冠詞」

「へ?」

「男性名詞に使う定冠詞。何も見ないで言ってごらん」


 ドイツ語には名詞に性がある。男性名詞と、女性名詞と、中性名詞。あと、複数名詞も。その名詞の性によって名詞の前に置かれる冠詞がかわる。

 定冠詞とは、英語でいうところの"the"で、ちなみに不定冠詞は英語でいうところの"a"だ。

 えーと、定冠詞は昨日寝る前にザッと覚えたから言えるはず…。

 辞書をパラパラとめくるのをやめて、頭の引き出しを開けていく。


「der、des、dem……………den?」

「うん。女性名詞は?」

「die、der、der、die?」

「うん。中性名詞」

「das、des……dem…das」

「最後、複数名詞」

「die、der、den、die!」

「ちゃんと覚えてるじゃん」


 "えらいえらい"と左手で髪をクシャクシャと撫でつつ、右手はエンターキーをたたいていた。ほんの数秒間、こちらに向けられた顔には柔らかい笑顔。

 子ども扱い、だなあ…。

 ほめられているというのに、素直に喜べない。


「……っていうか、翔ちゃんもドイツ語とってたの?」

「うん、まあ………………沙苗がとりそうだなあと思って」

「ん?」

「いや、なんでも…定冠詞と不定冠詞と、あとは主語に対する人称変化とか、そのへんおさえとけば平気なんじゃない?」

「名詞の性とかも覚えなきゃだめー…?」

「辞書持ち込み可でしょ?」

「うん」

「だったら覚えなくたって平気だよ。名詞の性も動詞の格とかも、全部辞書見ればわかるし」

「あ、そっか」

「そんなに心配しなくても大丈夫だよ」


 打ち込みが終わったのか、近くにあったプリンターが音をたて始める。

 ポンポンと弾みをつけて触れたあと、髪から左手が離れていった。
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