伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.4
何人もの人たちに手伝われながらお風呂に入るなんて、生まれて初めての事だった。
着ていた物は全て丁寧に脱がされ、頭のてっぺんからつま先まで冗談抜きで全身隈なく泡だらけにされ、長く伸びた黒髪も普段特別な手入れをしていない手足も、隅々まで磨き上げられた。
のぼせない程度で湯船から上げられると、今度は丁寧に肌触りのいいふわふわのタオルで水分を拭われ、慎重なほど細やかな手さばきで髪を乾かされる。
水分の抜けた髪は香油を塗られ、部屋の明かりで艶めいて見えた。
こんなふうに手入れされることも初めてで、何だか落ち着かない。
抵抗する暇も断る暇も与えられず、されるがままの私は手際のいいゼルダたちの仕事を目で追いながら、ぼんやりとこの状況を静観していた。
ええと、どうしてこうなったのかしら。
確か私はついさっきまで自分のお屋敷にいて、夜になってからこちらの都合も考えず押しかけてきたアウラー男爵と面会し、近いうちに訪れる未来を悲観して絶望していたはず。
どうにかご加護があればと祈っていたら、彼が現れたんだ。
孤高の公爵様が。
一緒に来れば助けてくれると言っていたけど、ゼルダは私を「奥方になる方」だと言って、公爵様もそれを肯定した。
つまり私は公爵様と結婚することになっている?
…アウラー男爵との婚約はどうなるんだろう。
ここへ来てようやく少しまともに動き始めた脳は、急にそんな疑問に気付く。
確かにあんな男に嫁ぐより、公爵様に嫁いだ方がずっとマシ。
ううん、それ以上にきっとほかの女性から見れば「幸せ」な事なんだと思う。
でも。
公爵様にとって私との結婚にどんなメリットがあるの?
大抵は持参金があったり、政治的な関係があったり、何かしら彼にとってメリットがあるはず。
ところが私ときたら持参金はおろか借金を背負っている身。
さらに言うなら伯爵という身分は持っていても、財産を持っているわけでも彼に有利に働くコネクションがあるわけでもない。
女性として彼を惹きつける魅力があるわけでもないし…自分で言って悲しくなるけれど。
だからこそ分からない。
彼が望む私の役割は何?
私を救ってくれる代わりに望んでいるものは?
冷静になればなるほど疑問ばかりが増えていく。
そうこうしている間に鏡の中に映る私はすっかり変身を遂げていた。
微かに鼻をくすぐる柔らかな花の香りに、緩く編み上げられた黒髪。
控えめに施された白粉のおかげで随分肌がきれいに見える。
着せられたドレスは春の日差しを受けた若葉のような色。
用意の整った私を鏡越しに見詰めて、ゼルダたちはみんな満足そうな表情を浮かべている。
「いかがですか、エルフリーデ様」
「あ、ええ…こんなに綺麗にしていただいたのは初めてで、なんというか、あの」
「ふふ、とてもお美しいですよ。旦那様のお選びになったドレスが本当にお似合いです」
そう言いながらドレスの裾を直してくれる。
私も視線をドレスに向けた。
これを公爵様が選んだの?
「青いドレスも素敵だけれど、エルフリーデ様には明るく優しい色が似あうはずだと、他にも何着かご用意してあるんですよ。どれも旦那様が生地を選んで仕立てさせたものなんです」
「…公爵様が?」
「はい。旦那様はあの通り口数の少ないお方ですが、とても温かい方です。ご安心くださいませ」
ゼルダは一際笑顔を深くして、目を細めた。
きっとその言葉は本当なんだろう。
口調や表情から彼がどれほど慕われ、尊敬されているのかがよく分かる。
彼は温かい人…?
だから私を助けてくれるの?
こんなに素敵なドレスまで用意して?
「あの、ゼルダさん」
「まあ!敬称など必要ありませんよ。ゼルダとお呼びくださいませ」
「…じゃあ、ゼルダ?」
「はい」
「どうして公爵様は私を助けてくださるの?私のような人間、厄介なお荷物だわ」
ただでさえお父様の死にはいくつかの疑惑が残されている。
それは少なからず社交界に噂として流れているし、アウラー男爵に嫁ぐことになった私についてもよからぬ噂が吹聴されている。
この状況で私に接触すれば、公爵様の名を汚すことになりかねないのに。
そんなお荷物を自ら背負うなんて、正気の沙汰じゃないと誰もが思うでしょう。
「エルフリーデ様、そのようなお顔をなさらないでください」
ふと、ゼルダの温かな掌が頬に触れる。
丸い親指で眉間のしわをそっと撫でて、切なげに瞳を細めた。
「一人ですべて背負われて、大変な思いをなさいましたね…。でも旦那様は噂などに惑わされるお方ではありません。誰よりもエルフリーデ様を心配しておいでです」
「心配?」
「はい。ですから…、いえ、これ以上は旦那様に直にお伺いになった方がいいでしょう。きっとエルフリーデ様のそのドレス姿もご覧になりたいはずですから」
「…分かりました」
ゼルダは穏やかに私の手を取って公爵様の待つ居間へ案内してくれた。
居間に着いた私の耳に真っ先に届いたのは
「お兄様!」
年頃の少女だけが持つ純真無垢な愛らしい声で、視界に映ったのはくるりとウェーブした髪を二つに結び、公爵様の膝の上に乗って楽しげに彼に話しかける女の子の姿だった。
まるで子猫がじゃれつくような無邪気さの彼女を公爵様は笑って受け止める。
扉を少し広げて二人に近づくと、一斉に彼らの視線が私を捉えた。
「エルお姉さま!!」
「あ、こら」
元気よく身を乗り出す彼女を公爵様が支えて窘める。
エル、お姉さま?
びっくりして思わず公爵様に視線を向けると、彼はなぜだか大きく息を吸い込んで黙り込んだ。
え?
どういう事だかわからない反応に、私も戸惑って立ち尽くしてしまった。
そんな私を見て公爵様の膝の上にいる少女は満面の笑みを浮かべている。
「こんばんわ、お姉さま。あ、初めましての方がいいかしら?ねえ、お兄様」
「…きちんと挨拶しなさい」
「はーい」
悪戯好きな幼い子のように返事をしながら、彼女は傍らにあった車いすに降り、器用に操りながらこちらに近づいてくる。
目の前までやってくると、小さな手を差し出してきた。
「私はイリーネ・バウムガルト、ディーお兄様の妹です。初めまして、お姉さま」
「初め、まして…エルフリーデ・アウシュタイナーと申します」
躊躇いがちに手を出すと、彼女は嬉しそうに手を重ねる。
「あのね、ずっと楽しみにしていたの。やっぱりお兄様の言った通りね。とっても素敵なお姉さまだわ!」
一体彼はどんな風に私の事を言っていたのか気になる。
けれど彼女の喜びようを見ていると、悪い話でないことは確かだ。
イリーネ様は小さな手で私の手を柔らかく握ったまま、テーブルに着くように促してくれた。
自然な誘導で、公爵様の隣に。
「ふふ、素敵ね」
テーブルに両肘をついて嬉しげに笑う。
「お兄様が見つけた人だから、きっととってもきれいな方だって思っていたの」
「そんな風に言われたのは初めてです。イリーネ様」
「どうして?お兄様は毎日言ってたわ。花嫁にするなら、お」
と、彼女が言いかけた時だった。
「イリーネ」
ことさら低い声が戒める。
隣に座っているのに彼はこちらに背中を向けていて、どんな顔をしているのか分からない。
怒っている風ではないけれど、決していい気分でないことは確かだ。
その証拠にイリーネ様をさっと抱き上げると
「もう子供は寝る時間だ」
そう言って強制的に退室させる気らしかった。
イリーネ様は明らかに不満げな顔をしている。
でも根が素直な方なのだろう。
抵抗しても仕方ないと悟ったのか、大人しくなると彼の肩越しにこちらを向いて手を振ってくれた。
小さな声で「おやすみなさい」と呟いて。
無意識に笑みがこぼれてしまう。
何て可愛い方なのだろう。
私にも彼女のような妹がいたらよかったのに。
そうしたら少しは気持ちも違ったかしら。
嘆いたり戸惑ったり躊躇ったり、怒りに燃えたり復讐に心を凍らせたり…そんなことにはならなかったかしら。
あの時、一人でなかったなら。
(バカだわ、私)
思い返しても仕方のないことなのに。
どんな道を選んだにせよ、今私はここにいる。
それが全て。
一人では答えの出ない疑問ばかり浮かぶせいで、ぐるぐると出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。
部屋に一人残された私は急に手持無沙汰になって、不意に窓際へ歩み寄った。
あれだけ煌々と輝いていた月も今は雲に隠れている。
気付いた途端、体の芯から重い疲労感が這い上がってくる。
もうずっと酷い圧迫感に押しつぶされそうだった。
いつ訪れるとも分からないアウラー男爵に、本当は怯えきっていた。
振り切れない嫌悪感と恐怖は足元から私を追い詰めていた。
だから…。
実家の庭でそうしていたように、空を仰ぎ見る。
月の光は随分弱まっているけれど、十分すぎるほど明るい。
「お父様…」
呼びかけた声に重なるように、耳元で聞こえたのは微かな衣擦れの音。
次に感じたのは温かな腕の重み。
「公爵、様?」
彼はいつもそう。
表情を悟らせない。
今だって背中から抱きしめられているせいで、彼がどんな顔でそうしているのか分からない。
けれど少しだけ不機嫌そうな声で
「ディートリヒ、だ」
なんて言うから、ちょっとだけ笑ってしまった。
途端に強くなる彼の抱擁に、胸がぎゅっと詰まる。
「ありがとうございます、ディートリヒ様」
かすれる喉で告げれば
「礼を言う必要はない」
低い声が、感情のない口調でそう告げた。
続く
何人もの人たちに手伝われながらお風呂に入るなんて、生まれて初めての事だった。
着ていた物は全て丁寧に脱がされ、頭のてっぺんからつま先まで冗談抜きで全身隈なく泡だらけにされ、長く伸びた黒髪も普段特別な手入れをしていない手足も、隅々まで磨き上げられた。
のぼせない程度で湯船から上げられると、今度は丁寧に肌触りのいいふわふわのタオルで水分を拭われ、慎重なほど細やかな手さばきで髪を乾かされる。
水分の抜けた髪は香油を塗られ、部屋の明かりで艶めいて見えた。
こんなふうに手入れされることも初めてで、何だか落ち着かない。
抵抗する暇も断る暇も与えられず、されるがままの私は手際のいいゼルダたちの仕事を目で追いながら、ぼんやりとこの状況を静観していた。
ええと、どうしてこうなったのかしら。
確か私はついさっきまで自分のお屋敷にいて、夜になってからこちらの都合も考えず押しかけてきたアウラー男爵と面会し、近いうちに訪れる未来を悲観して絶望していたはず。
どうにかご加護があればと祈っていたら、彼が現れたんだ。
孤高の公爵様が。
一緒に来れば助けてくれると言っていたけど、ゼルダは私を「奥方になる方」だと言って、公爵様もそれを肯定した。
つまり私は公爵様と結婚することになっている?
…アウラー男爵との婚約はどうなるんだろう。
ここへ来てようやく少しまともに動き始めた脳は、急にそんな疑問に気付く。
確かにあんな男に嫁ぐより、公爵様に嫁いだ方がずっとマシ。
ううん、それ以上にきっとほかの女性から見れば「幸せ」な事なんだと思う。
でも。
公爵様にとって私との結婚にどんなメリットがあるの?
大抵は持参金があったり、政治的な関係があったり、何かしら彼にとってメリットがあるはず。
ところが私ときたら持参金はおろか借金を背負っている身。
さらに言うなら伯爵という身分は持っていても、財産を持っているわけでも彼に有利に働くコネクションがあるわけでもない。
女性として彼を惹きつける魅力があるわけでもないし…自分で言って悲しくなるけれど。
だからこそ分からない。
彼が望む私の役割は何?
私を救ってくれる代わりに望んでいるものは?
冷静になればなるほど疑問ばかりが増えていく。
そうこうしている間に鏡の中に映る私はすっかり変身を遂げていた。
微かに鼻をくすぐる柔らかな花の香りに、緩く編み上げられた黒髪。
控えめに施された白粉のおかげで随分肌がきれいに見える。
着せられたドレスは春の日差しを受けた若葉のような色。
用意の整った私を鏡越しに見詰めて、ゼルダたちはみんな満足そうな表情を浮かべている。
「いかがですか、エルフリーデ様」
「あ、ええ…こんなに綺麗にしていただいたのは初めてで、なんというか、あの」
「ふふ、とてもお美しいですよ。旦那様のお選びになったドレスが本当にお似合いです」
そう言いながらドレスの裾を直してくれる。
私も視線をドレスに向けた。
これを公爵様が選んだの?
「青いドレスも素敵だけれど、エルフリーデ様には明るく優しい色が似あうはずだと、他にも何着かご用意してあるんですよ。どれも旦那様が生地を選んで仕立てさせたものなんです」
「…公爵様が?」
「はい。旦那様はあの通り口数の少ないお方ですが、とても温かい方です。ご安心くださいませ」
ゼルダは一際笑顔を深くして、目を細めた。
きっとその言葉は本当なんだろう。
口調や表情から彼がどれほど慕われ、尊敬されているのかがよく分かる。
彼は温かい人…?
だから私を助けてくれるの?
こんなに素敵なドレスまで用意して?
「あの、ゼルダさん」
「まあ!敬称など必要ありませんよ。ゼルダとお呼びくださいませ」
「…じゃあ、ゼルダ?」
「はい」
「どうして公爵様は私を助けてくださるの?私のような人間、厄介なお荷物だわ」
ただでさえお父様の死にはいくつかの疑惑が残されている。
それは少なからず社交界に噂として流れているし、アウラー男爵に嫁ぐことになった私についてもよからぬ噂が吹聴されている。
この状況で私に接触すれば、公爵様の名を汚すことになりかねないのに。
そんなお荷物を自ら背負うなんて、正気の沙汰じゃないと誰もが思うでしょう。
「エルフリーデ様、そのようなお顔をなさらないでください」
ふと、ゼルダの温かな掌が頬に触れる。
丸い親指で眉間のしわをそっと撫でて、切なげに瞳を細めた。
「一人ですべて背負われて、大変な思いをなさいましたね…。でも旦那様は噂などに惑わされるお方ではありません。誰よりもエルフリーデ様を心配しておいでです」
「心配?」
「はい。ですから…、いえ、これ以上は旦那様に直にお伺いになった方がいいでしょう。きっとエルフリーデ様のそのドレス姿もご覧になりたいはずですから」
「…分かりました」
ゼルダは穏やかに私の手を取って公爵様の待つ居間へ案内してくれた。
居間に着いた私の耳に真っ先に届いたのは
「お兄様!」
年頃の少女だけが持つ純真無垢な愛らしい声で、視界に映ったのはくるりとウェーブした髪を二つに結び、公爵様の膝の上に乗って楽しげに彼に話しかける女の子の姿だった。
まるで子猫がじゃれつくような無邪気さの彼女を公爵様は笑って受け止める。
扉を少し広げて二人に近づくと、一斉に彼らの視線が私を捉えた。
「エルお姉さま!!」
「あ、こら」
元気よく身を乗り出す彼女を公爵様が支えて窘める。
エル、お姉さま?
びっくりして思わず公爵様に視線を向けると、彼はなぜだか大きく息を吸い込んで黙り込んだ。
え?
どういう事だかわからない反応に、私も戸惑って立ち尽くしてしまった。
そんな私を見て公爵様の膝の上にいる少女は満面の笑みを浮かべている。
「こんばんわ、お姉さま。あ、初めましての方がいいかしら?ねえ、お兄様」
「…きちんと挨拶しなさい」
「はーい」
悪戯好きな幼い子のように返事をしながら、彼女は傍らにあった車いすに降り、器用に操りながらこちらに近づいてくる。
目の前までやってくると、小さな手を差し出してきた。
「私はイリーネ・バウムガルト、ディーお兄様の妹です。初めまして、お姉さま」
「初め、まして…エルフリーデ・アウシュタイナーと申します」
躊躇いがちに手を出すと、彼女は嬉しそうに手を重ねる。
「あのね、ずっと楽しみにしていたの。やっぱりお兄様の言った通りね。とっても素敵なお姉さまだわ!」
一体彼はどんな風に私の事を言っていたのか気になる。
けれど彼女の喜びようを見ていると、悪い話でないことは確かだ。
イリーネ様は小さな手で私の手を柔らかく握ったまま、テーブルに着くように促してくれた。
自然な誘導で、公爵様の隣に。
「ふふ、素敵ね」
テーブルに両肘をついて嬉しげに笑う。
「お兄様が見つけた人だから、きっととってもきれいな方だって思っていたの」
「そんな風に言われたのは初めてです。イリーネ様」
「どうして?お兄様は毎日言ってたわ。花嫁にするなら、お」
と、彼女が言いかけた時だった。
「イリーネ」
ことさら低い声が戒める。
隣に座っているのに彼はこちらに背中を向けていて、どんな顔をしているのか分からない。
怒っている風ではないけれど、決していい気分でないことは確かだ。
その証拠にイリーネ様をさっと抱き上げると
「もう子供は寝る時間だ」
そう言って強制的に退室させる気らしかった。
イリーネ様は明らかに不満げな顔をしている。
でも根が素直な方なのだろう。
抵抗しても仕方ないと悟ったのか、大人しくなると彼の肩越しにこちらを向いて手を振ってくれた。
小さな声で「おやすみなさい」と呟いて。
無意識に笑みがこぼれてしまう。
何て可愛い方なのだろう。
私にも彼女のような妹がいたらよかったのに。
そうしたら少しは気持ちも違ったかしら。
嘆いたり戸惑ったり躊躇ったり、怒りに燃えたり復讐に心を凍らせたり…そんなことにはならなかったかしら。
あの時、一人でなかったなら。
(バカだわ、私)
思い返しても仕方のないことなのに。
どんな道を選んだにせよ、今私はここにいる。
それが全て。
一人では答えの出ない疑問ばかり浮かぶせいで、ぐるぐると出口のない迷路に迷い込んだ気分だ。
部屋に一人残された私は急に手持無沙汰になって、不意に窓際へ歩み寄った。
あれだけ煌々と輝いていた月も今は雲に隠れている。
気付いた途端、体の芯から重い疲労感が這い上がってくる。
もうずっと酷い圧迫感に押しつぶされそうだった。
いつ訪れるとも分からないアウラー男爵に、本当は怯えきっていた。
振り切れない嫌悪感と恐怖は足元から私を追い詰めていた。
だから…。
実家の庭でそうしていたように、空を仰ぎ見る。
月の光は随分弱まっているけれど、十分すぎるほど明るい。
「お父様…」
呼びかけた声に重なるように、耳元で聞こえたのは微かな衣擦れの音。
次に感じたのは温かな腕の重み。
「公爵、様?」
彼はいつもそう。
表情を悟らせない。
今だって背中から抱きしめられているせいで、彼がどんな顔でそうしているのか分からない。
けれど少しだけ不機嫌そうな声で
「ディートリヒ、だ」
なんて言うから、ちょっとだけ笑ってしまった。
途端に強くなる彼の抱擁に、胸がぎゅっと詰まる。
「ありがとうございます、ディートリヒ様」
かすれる喉で告げれば
「礼を言う必要はない」
低い声が、感情のない口調でそう告げた。
続く